志々伎神社
【しじきじんじゃ】

平戸市野子町にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は十城別王。志々岐・志々支とも記す(三代実録)。当初は松浦明神と称した。平戸島南の名山といわれる志々伎山(347.2m)山頂に位置する上都宮,中腹の中都宮,山麓宮ノ浦の辺都宮(地の宮),湾内沖ノ島の沖都宮の四宮の総称である。志々伎山は「肥前国風土記」にみえる景行天皇行宮の地「志式島」に位置する。祭神十城別王は仲哀天皇の弟で,神功皇后三韓出兵の帰途,志自伎(志々伎)に駐留して警備の任に当たったという。社伝によると当社はこの地で没した十城別王を祀って天平10年に創建,松浦明神と称したと伝える。上都宮は山頂の石祠で十城別王の墳墓といわれる。中都宮はもとは山頂真下に位置しており,永禄2年中腹に移した。辺都宮は景行天皇の行在所といわれ,沖都宮は十城別王の最初の上陸地と伝える(以上,郡村誌)。弘仁2年木像の神体を安置し志々伎神社と改称。「三代実録」貞観2年2月8日条で従五位下から従五位上へ昇叙,同15年9月16日条で正五位下へ叙されている。しかし同18年6月8日条でも従五位上から正五位下へ叙されており,重複している。元慶元年に勅使の参向があったという。「延喜式」神名帳松浦郡条に「志々伎神社」とみえる。文亀3年吉田兼倶作の「延喜式神名帳頭註」(群書2)には「志々伎 稚武王弟十城別王也。号下松浦明神也」とあり,田島神社(佐賀県東松浦郡呼子町)を上松浦神社と呼ぶのに対して下松浦神社と称されていた。別当は真言宗円満寺が勤めた。中都宮に隣接し古来より当社別当であったという。フロイスの「日本史」に,平戸に滞在していたイエズス会のビレラ神父が,布教に熱心なあまり永禄元年に仏像を焼却したことに対し平戸在住の僧侶のうち,特に安満岳と志々伎山という2僧院の上長たちが激怒して松浦隆信に談判した。そのため隆信はビレラを説諭して平戸を去らせたとある。江戸期の寺領は150石(郡村誌),肥前国新義真言宗本末帳には「松浦郡平戸島 円満寺 無本寺」と見える(江戸幕府寺院本末帳集成)。末寺として平戸村正安寺・小徳賀島満福寺の2か寺を,門徒として福満寺・阿弥陀寺など7か寺,また門徒8か寺を擁する大寺院であった(同前)。神仏分離政策により明治2年廃寺となり,住持は門徒阿弥陀寺に移った(郡村誌)。明治3年沖都宮を改築,同6年武器庫となっていた辺都宮を神殿に改築した。同7年郷社に列格,同14年県社に昇格した。昭和36年中都宮を円満寺跡に遷宮。例祭は11月8日。8月14日には当社氏子区内より自安和楽(ジャンガラ)念仏が奉納される。また当社に古くから伝わる神相撲は今日の相撲の原形といわれる。辺都宮・沖都宮の社叢は県天然記念物。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7221037 |