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島原藩
【しまばらはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。肥前国高来(たかき)郡島原に居城を置き,はじめ外様小藩,のちに譜代中藩となる。豊臣秀吉の九州平定により,島原半島の一円4万石が有馬晴信に与えられて当藩の出発となった。有馬晴信は北有馬の日野江城に拠り,家臣に対し城下への集住を実施したが,半島内諸土豪は旧領の地方知行主であり,そのため土豪掌握も困難であった。しかし,秀吉の2度にわたる朝鮮出兵に有馬氏も兵2,000をもって小西行長の軍に従い出兵させられたことや家臣への論功行賞などにより,家臣団の再編成を実施していった。関ケ原の戦においては,有馬氏は徳川方に味方し,旧領4万石を安堵された。慶長17年岡本大八事件により領地没収となったが,特別の計らいで子の直純に継封を許された。ところで,永禄5年アルメイダ修道士が有馬義直の要請により口之津へ来たのが島原半島へのキリシタン導入の第一歩であり,天正4年には義貞が受洗,4年後には晴信もヴァリニャーノ神父により受洗,同10年天正遣欧使節のローマ派遣が行われている。有馬直純は継封は許されたものの慶長19年日向国延岡に移封させられた。しかし,家臣の中には従わない者が多く,彼らがのちの島原の乱時に指導者層になっていった。有馬直純の転封後は一時幕府領となったが,元和2年松倉重政が4万石で入部。一国一城令が前年に発布されていたため,重政は島原に森岳城を同4年より7か年の歳月をかけて完成,以後島原が政治・経済・文化の中心となる。重政はルソン島遠征を企画したが,急病で亡くなったため果たし得ず,また勝家代に入りキリシタン弾圧は従前より厳しさを加えた。ここに寛永14年島原の乱が勃発することになる。原因としては森岳城築城のための重税や労力の負課,ルソン遠征計画による藩経済の圧迫,長崎奉行竹中采女正の失脚に伴う藩収入減,寛永12年の参勤の制度化に伴う出費,翌年の江戸城のお手伝普請の出費,同年の大風による収租減,翌年の旱魃等々が挙げられる。島原の乱により,松倉氏は翌15年改易となる。乱後の処理と復興の任を負って寛永15年に4万石で入部したのが高力忠房であった。以後島原藩には譜代大名が派遣されるようになった。乱に参加した村々は「亡所」となったため,幕府は同19年諸藩に1万石に1戸の割合で島原・天草地方への農民の移住を命じたが,また「作り取り」を聞いた近隣諸藩の農民が逃げ込んで来る「方々走り百姓」もあった。キリシタン宗門改めには竈主は血判を押させられるようになった。高力氏は寛文2年に領内総検地を実施した。「寛文朱印留」での高力氏の所領は,肥前国高来郡のうち31か村,高3万7,000石で,村名は島原・三会・三沢・東穴(空)閑(ひがしこが)・大野・湯江・多比良(たいら)・大(土)黒・西郷・伊古・伊福・三室・山田・野井・愛津・千々石(ちぢわ)・小浜・北串山・南串山・賀(加)津佐・口之津・南有馬・北有馬・有家(ありえ)・布津・深江・中木場・西古賀・日見・茂木・椛島の諸村。高力氏2代隆長は,過度の年貢・労役を課したかどで,寛文8年改易となった。このため一時幕府領となるが,翌9年松平忠房が入部し,豊前国宇佐郡の48か村,豊後国東郡の50か村の合計2万7,500石が加増されたため島原本藩と合わせて6万5,900石余となり,「島原七万石」と呼ばれることになった。忠房は,寛文・延宝年間に領内再検地を行い,また領内を島原筋・愛津筋・口之津筋・有馬筋・安徳筋の5筋に分けた。のちの宝永年間には北目筋・西目筋・南目筋の3筋に分けたが,村数33か村は定着していった。寺社領も寄進されており,半島内の寺社縁起もこの頃に始まるものが多い。また地方知行から蔵前知行への切り替えも行われ,近世大名としての形が整えられていった。忠房は,救荒食物としての甘藷の栽培を始め,櫨樹の栽培,馬匹の改良にも努力した。また17世紀の後半,和漢の書籍を集めており,現在島原市立図書館に収蔵されている「松平文庫」は,忠房が収集したものである。2代忠雄の時期には藩側の記録「島原様子書」も完成し,村々の概況を知ることができる。これによれば,島原本藩領は城下の島原町のほか,村々は北目筋・西目筋・南目筋の3筋に大別され,北目筋には島原・杉谷・三会・三之沢・東空閑・大野・湯江・多比良・土黒(ひじくろ)・西郷・伊古・伊福・三室・守山・山田・野井・愛津の17か村,西目筋には千々石・小浜・北串山・南串山・加津佐・口之津・南有馬の7か村,南目筋には北有馬・隈田・有家町・有田・堂崎・布津・深江・安徳・中木場の9か村が属し,合計33か村で,各村内はいくつかの名(みよう)に分かれていた。総高は3万8,302石余,うち田2万6,192石余(3,204町余),卯(寛政7年)改めの新切は2,261町余(田236町余・畑2,025町余),文政6年改めの家数3万8,587,人数は男5万7,884・女5万6,807,牛2,461・馬8,169,遠見番所21か所などとある(島原半島史)。年貢は,新切田・見取田・一毛田・新田,新切畑・見取畑・一毛畑・畑之田成などにも課せられ,検見法が幕末まで続く。次代の忠俔時代には前代より重用された黒川郷兵衛政勝に対する桃井十兵衛らの弾劾運動が表面化し,黒川はついに江東寺において死を命じられた。次代忠刻時代には元文4年より連続5か年暴風雨などのため藩経済は極度に困窮化したため櫨の藩専売に力を入れ,延享元年には櫨木10万本を植えさせるなど積極的な藩経済の立直し策を講じた。しかし,忠祇が継封すると,幼少のためその任に耐えずとして寛延2年下野国宇都宮城主の戸田氏との交代を命じられた。戸田氏は7万7,000石で入部し,忠辰・忠寛の2代25年在封したが,安永3年には松平氏と再度の城地交代が命じられた。この間,明和4年には忠寛が幕府の許可を得て初めて藩札を発行した。藩札は6種類があり,年限は15か年,7年後には戸田氏は旧領宇都宮へ帰ったため残りの年限は松平氏に受け継がれた。安永3年宇都宮より松平忠恕(忠祇の養子)が再び入部したが,家臣総数3,385,移転費用約4万石分であったという。「安永3年郷村帳」によれば,所領は高来郡内33か村・高4万3,445石余(うち拝領高3万8,302石余・改出新田5,143石余),豊後国国東郡内50か村・高1万5,310石余(拝領高1万4,059石余・改出新田1,251石余),豊前国宇佐郡内48か村・高1万4,588石余(拝領高1万3,548石余・改出新田1,039石余)で,合計高7万3,343石余(拝領高6万5,909石余・改出新田7,434石余)とある(島原半島史)。拝領高は変わらず,改出新田高は3郡合計7,434石余の増加となっている。天明3年藩札1,600貫文を発行。天明年間の飢饉の頃は当領内でも風水害が続き,寛政元年救民儲穀法を布達,備荒貯蓄の制を設け,藩財政の立て直しを企図した矢先,同4年には雲仙岳の大爆発という空前の大災害にあった。前年11月頃より余震が続き,翌年正月18日に普賢岳の第1回の噴火,2月29日は溶岩流下,4月1日日没後に眉山が崩壊し,一時に島原の海岸線を変え,九十九島ができ,山麓の村は人畜ともに埋没,津波は愛野町より有馬町の海岸を襲い,対岸の肥後国天草郡・宇土郡・玉名郡にも甚大な被害を与え,後世「島原大変,肥後迷惑」ともいわれた。藩内の死亡者約9,500名,藩主忠恕は惨状を視察後,守山村庄屋宅にて切腹して果てたほどである。復旧の任を負って忠馮が襲封し,村民永保法(百姓相続法)を布達し,藩校稽古館を設立した。当藩医学教育の端緒は稽古館での一学科として教えられたことに始まる。忠侯の時,城内本丁に医学兼病院として,済衆館が独立開校した。稽古館も天保5年に再建・拡張されたが,当時の儒学者に岩瀬行言の弟子川北重喜(温山)・佐藤貞椒がおり,川北温山の弟子柳沢芝陵は陽明学者として知られる。また文政10年に開かれた島原町の高田宇多子の高田塾は本藩女子教育の先駆であった。文化元年レザノフ長崎来航,同5年フェートン号強制入港などの事件が起こり,長崎港警備の早船の造船,各村々への人馬割当てが実施され,借銀がかさみ,同7年には藩負債返済のため「三府の法」が発令された。同11年上級家臣の俸禄削減策を提示し,翌年には御内定書を布達,家臣の俸禄の借上げについて承諾を得ている。また櫨方役所を創設し藩専売の強化に努めた。大地震後は,藩札の大量の発行と相まって農民層の分解も著しく進んだ時期であり,畑作銀納が見られ,豪農家では大福帳が作成されたりもした。藩主忠侯は天保年間に当たり,飢饉の時には天保8年山田・野井の新田,同9年島原では御用商人中山要右衛門による大手浜下7町3反余の干拓事業が行われた。一方飢饉によって各村々には多くの餓死者が出た。忠誠の頃,弘化元年藩医市川保定(泰朴)は九州で初めて死体解剖を行い,当時立会った人々の子孫が半島内の村医として活躍するようになった。次代忠精の頃,嘉永2年当藩で初めて種痘が実施される。長崎のオランダ軍医モーニッケに市川泰朴・賀来佐之らが学んできたものである。同6年には薬草園も完成,シーボルトに学んだ賀来佐之と弟の睦之の努力による「島原採薬記」に記された薬草約528種にのぼる。その後全国の山野に薬草を求めて歩き,睦之はのちに国立東京大学小石川植物園取調掛となった。嘉永6年ペリーの浦賀来航,同年プチャーチンが長崎に来港し,当藩から早船や人馬が長崎に向けて派遣された。これを機に鉄砲・大砲の鋳造のために村々の寺院の鐘が徴用される。藩命による農兵制の準備も成され,島原の海岸3か所に砲台も築かれた。藩論も攘夷・開国の両論ある中で,安政5年には日米修好通商条約も締結される。最後の藩主忠和の時,文久3年天皇の攘夷祈願,文久の打払令が出されたため,同年4月正式に農兵制を採用し,半島海岸3か所に農兵隊を配備した。第1回長州戦争に当藩は幕府側に立ち,兵を豊後高田まで送ったが,長州敗退のため戦わずして帰藩した。第2回長州戦争中止後,当藩では尊攘派の激烈組が中老松坂丈左衛門正綱を襲う事件も起きた。戊辰戦争では幕府側の立場を守り新政府軍と戦ったが,奥羽戦争には立場を替えて,長崎の沢総督の命に従い新政府軍として出兵した。藩主忠和は,戦後使者を朝廷に遣わし,その裁きを待って許された。明治初年の「藩制一覧」によれば,高来・国東・宇佐3郡内の高7万4,872石余,正税は現米3万6,945石余・雑穀8,280石・金2,571両余,雑税は現米2,919石余・金3,361両余,国産物として農牛馬990疋(運上金15両)・櫨実350万斤(益金3,000両)があり,戸数3万6,590・人口17万5,051,うち士族369戸・2,220人,兵卒888戸・4,322人。「旧高旧領」では,高来郡内の所領は33か村・4万4,926石余。明治4年7月廃藩置県により島原県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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