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天神多久頭魂神社
【てんじんたくつたまのじんじゃ】


上県(かみあがた)郡上県町佐護湊天道山にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は建弥己己命。古くは天多久都玉神・天神多久頭多麻命神社と称し,天道信仰との習合後は天道(大)菩薩とも呼ばれた。現在もテンドウサマと通称される。また,厳原(いずはら)町豆酘(つつ)に位置する多久頭魂神社を悠紀宮と称するのに対して主基宮とも称す(津島紀事)。雄岳・雌岳からなる天道山は古来より不入の聖地とされる霊山。厳原町豆酘にも同名の地があり,南北の霊山となっている。当社はその天道山の海岸からの遥拝所で社殿はなく神籬磐境の形式をとる。積石の塔が2基立ち並び磐境を形成,また雄岳絶頂に神籬があり,天道菩薩の住居といわれる。祭神建弥己己命は高魂尊五世孫で神武天皇のときに津島県直に任命された(国造本紀)。建弥己己命が神武天皇の詔に応じて奉祀したことに始まると伝えるが詳細は未詳。「三代実録」貞観12年3月5日条で「天多久都玉神」として従五位下から従五位上へ昇叙され,「延喜式」神名帳上県郡条に「天神多久頭多麻命神社」と見える。霊山天道山は不入の聖地で,人々は近付くことを許されず,身を清めて遥拝していた。その様子について貞享3年の「対州神社誌」には「天道大菩薩 神体無之 天道地麦百俵蒔程之山也 村より北ニ当ル 麓迄三町程 雄岳雌岳とて峰二有……雄岳之頂上ニ天道菩薩住居被成候由申伝候 此雄岳之山八分之所より 磯石数百有之 東之麓ニ御手洗川有 此川より十間程南方ニ潮場と申候而 こおりを仕所有 此所より男女共ニ奉拝候也」と記されている。天道の名称は祭祀の対象になるとともに,祭祀の場所そのものをも指している。天道は原初的には穀霊信仰・日神信仰・母子神信仰といわれ(和歌森太郎:対馬の天童信仰),それと山の精霊,オタケを祀る信仰があったとみられ,それが天神を祀る朝鮮宗教の影響を受け,さらに仏教の影響を受けたと考えられている(中野幡能:対馬における山岳信仰)。こうして天道法師の信仰が形成された。「対州神社誌」所収の縁起によると天道法師は豆酘内院の住人照日某の娘が日光に感じて誕生。長じて僧となり,巫術を得,上洛して大宝3年に対馬へ帰った。33歳のとき元正天皇の不予に招かれ,祈念により天皇は平癒したという。後に天道法師は豆酘の卒土山に入定,母は「おとろし所(おそろし所)」で死亡した。その後天道法師が佐護湊に出現したという。豆酘の天道地は当地とともに天道信仰の中心で,天道法師の生誕地や入定地,その母の墓地など,天道法師に関連させた遺跡が多い。法師が入定後,佐護湊に出現したという話が天道法師の縁起にみえるということは,当地が天道法師の信仰に統合されたと考えられる。それにより人々は不入の地として崇拝した天道山を天道法師の聖地として信仰し,遥拝するようになった。天道法師・天道菩薩の話は豆酘では11世紀前後に生まれたと推定される(同前)。当地でもそれをあまり下らない時期に形成されたであろう。このような信仰に対して,江戸期の復古神道家の影響を受けた平山東山が文化6年に記した「津島紀事」には天道山について「神武天皇の朝 詔して天神地祇を祭らるるの時鎮するところの社也。延喜式に謂所天神多久頭魂神社是也……雄岳の絶頂に神有り。神皇産霊尊と称す。亦は鋤の神と称す」とある。また当社については「天神多久頭魂神社 祭る所の神一座 神御魂の御子の神 今天道と称す……神武天皇諸国に詔して天神地祇を祭らるる所の神祠也。神籬磐境敢へて人を入れず」となっている。祭神を神御魂(神皇産霊尊)の子神とするのは,「新撰姓氏録」左京神別条・和泉国神別条で多久豆(都)玉命を神魂命(神皇産霊尊)の子と記すことによるであろう。祭神は天神多久頭魂命と考えられていたようである。明治7年郷社に列した。なお,佐護友谷の地に鎮座する神御魂神社の祭神神皇産霊尊は天神多久頭魂神の母神と記されている(対馬神社誌)。神御魂神社は俗に女房神とも呼ばれ,総高25.5cmの木像を御神体とする。腹部に日輪を描き,像底および台座底に「天道女躰宮御神躰」と記された永享12年の銘があるところから(天道女神坐像銘/九州文化史研究所紀要18対馬美術調査概報第1次),日光に感じて天道法師を妊娠したという所伝に基づいて作られたものであろう。女房神というのは日の神の女房で,天道法師の母神のこととみられる。佐護にはほかにも延喜式内社天諸羽命神社に比定される天諸羽神社がある。また弥生・古墳時代からの遺跡もあり,早くから開発された地域と思われ,古代の豪族上県直氏の本貫地と推測される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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