100辞書・辞典一括検索

JLogos

59

府中
【ふちゅう】


旧国名:対馬

(近世)江戸期の城下名。対馬藩の城下町。対馬国下県(しもあがた)郡のうち。古代・中世には国府(こう)と呼ばれた地で,室町期から府中と見えるようになる。古くは白鳳年間対馬の国府が置かれた地で,下って文明18年に宗貞国が府を三根郷佐賀から当地に移して以来府中と呼ばれ,500年間宗氏の城下町として発展した。それまでは与良という戸数100余戸の寒村で,上里・中村・下里・向里・奥里の5集落からなっていた(改訂対馬島誌)。宗貞国が府中中村に館を構えてから5代40年の後に宗盛賢は池地を埋めて池の館に移ったが,宗氏の内紛によって館は焼失した。享禄元年館を金石に移した。その後文禄・慶長の役に際し,豊臣秀吉の清水山城の築城や,諸藩の陣屋や市街の石橋の架橋など整備された。戦後朝鮮との復交がなり,通信使の来聘も度重なるにおよんで,万治3年宗義真が桟原(さじきばら)新邸の起工,港から新邸に通ずる約2kmの馬場筋通りをはじめとする街路を造り,港には防波堤を築き,家臣の屋敷割をして城下町としての基盤が完成した。宗氏10万石の城下町は,石垣に囲まれた武家屋敷が馬場筋通りを中心として町の根幹をなし,それに付随して町人町が発達している。武家屋敷は主として砥石淵・宮谷・中桁・馬場筋・中村・山下・奥里などに分布し,町人町は裏町・笠淵・三原屋小路・鍛冶屋町・魚屋町・新中町・中須賀町・横町・新町・田の平・十王小路・浜町・恵比須町・船蔵町などに集まっていた。寛文元年12月中須賀町から出火した大火で715戸が焼失したが,ちょうど寛文の改革で家臣団の城下集住が問題となっている時期でもあったので,この大火を機に城下町を改造することになった。翌2年5月町割の相談が行われ,侍・大小姓・歩行は表6間,「六十人」(特権商人)は5間,一般町人は4間,内之者は3間という割付け基準が決定し,同年11月には府内の屋敷間目の測量が開始され,馬廻の屋敷は桁間10間に入15間,大小姓屋敷は桁間6間に入10間,歩行者屋敷は桁間6間に入9間,「六十人」屋敷は桁間5間に入8間,町人屋敷は桁間4間に入7間となった(県史藩政編)。侍町と町人町・職人町を明確に区別するという基本方針のもとに町割も再編成され,新町裏側の田の平・国分の町人家は武家屋敷にすること,その替地として久田道の武家屋敷を規定の間数にしてその余りを町人屋敷とすること,町幅を2間とし,屋敷の周辺に溝を掘るとともに屋敷地は中高にすることなども決定された(同前)。この結果,杉村・吉川・多田・平田氏などの上級家臣の屋敷は城下を南北に通じる馬場筋通りの東西両側に,馬廻衆や大小姓衆の屋敷は川筋通り(現県立対馬高校一帯)と国分・今屋敷にも置かれた。この武家屋敷の景観は,現在でも残っている。厳原本(いずはらほん)川上流の砥石淵町には藩主の居館である桟原館があった。この館は藩主宗義真が城下建設とともに造営したもので,万治3年に起工し,延宝6年に完成した。以後,義真から13代,幕末までの190年余の間,藩主の居館となった。館の造りは公家風で,とくに朝鮮通信使との接見の場として重要な意味をもった。この館の石垣と高麗門は現存している。町人・職人町は,延宝年間には27町あったといわれるが,町名が判明するものは浜之町・大橋(大手橋)・上ル東側町・今屋敷町・平馬場町・横町・夷町・新町・中須賀西町・中須賀中町・中須賀東町・向里町・裏町・田渕町・宮谷橋・丸山・かたひら・十王町・奥里・門蔵・今町・田の平・国分・小島・久田道・昌元町の26町である。田渕町は下級家臣の屋敷と職人の町でもあった。延宝5年の人数1万3,737人,元禄12年には1万6,136人に達した。安永元年長崎奉行の調査報告書によれば,「家老其外武家屋敷城之大手西之山方に相見,国主之屋形者十五,六町も登り,別所に而阿川浦江山手を相越,侍屋敷・町家共凡惣長二十町許,双方山岸に而幅五,六町も有之候,川二筋流れ場狭之所に御座候,市中町数二十六町有之」と記されている(県史藩政編)。またこの時の家数736(竈数991)・人数約3,000とある。文久元年の幕吏の報告には,神社14・寺院37と見える。なお,武士の人数は寛文年間404,元禄12年981,文化元年には馬廻衆194・大小姓286・徒士264の合計744,文久2年には馬廻衆294・大小姓441・徒士458の合計1,193とあり,これに足軽・中間や武士の家族を加えれば,城下の人数の過半を武士層が占めていたということになる。文久2年の町数は29町とされ,町名は馬場筋・砥石淵町・宮谷上町・宮谷下町・中桁町・日吉町・天道茂町・新中町上町・新中町下町・田渕町・丸山町・富町・裏町・昌元町・船蔵町・大手橋上町・大手橋下町・今屋敷町・横町・中須賀東町・中須賀西町・十王北町・十王南町・大町・国分町・浜北町・浜南町・恵比須町・久田道がある(県史藩政編)。町奉行所には2人の町奉行がおり,その下に2人の町年行司と4人の肝煎がいて町政を司り,各町には町乙名・頭領が置かれていた。また,特に朝鮮貿易品の取引きのために,大通詞(2人)・朝鮮町代官(2人)・長崎御除物役(1人)・長崎通詞(4人)・五人通詞(5人)が町人の中から選任されていた。安永元年には店頭商家は少なく,酒造家も14,5軒が家中用として製造にあたっていた。しかし幕末期には,酒屋13・質屋10・糀屋13・紺屋14・綿屋21・豆腐屋39・薬屋14・魚問屋20・旅船問屋4の総計148軒の店が数えられるようになったという。「六十人」あるいは「古六十人」,また「六十人格」と呼ばれる特権的町人は,本来宗氏に仕える武士であったが,対馬に来島するにあたって町人となり,海外貿易などの特権を与えられた階層で,城下においても年行司・町乙名などの町役人につき,藩との癒着が著しかった。年行司には橋辺又右衛門・生田次郎右衛門・(くけ)屋平左衛門があたり六人扶持を与えられ,商業上では朝鮮貿易に脇田三良右衛門・串崎惣兵衛・阿比留判左衛門・井手勘兵衛・大浦孫兵衛・橋辺善兵衛・服部平左衛門・服部仁兵衛・大東判右衛門・加瀬与右衛門の10人が商売方(元方掛)として貿易船をはじめ貨物の取扱いにあたり,長崎や上方の売買を担当した。さらに藩の御蔵物の販売については,堀助左衛門・松本仁兵衛・田中一郎右衛門・関野小兵衛の4人が売物問屋を命じられた(県史藩政編)。城下はたびたびの火災に見舞われたが,元禄年間以降をみても,同元年12月大町を中心に290戸が罹災,享保8年には319戸,同17年には宮谷橋から出火して1,219戸,同19年十王小路から出火して1,158戸,宝暦9年に中浜小路から出火して1,000戸,同11年天道茂から出火して902戸,文化5年浜町から出火して202戸,文政6年にも浜町から出火して1,022戸,天保2年には田渕町から出火して320戸が焼失している(同前)。明治2年当地は厳原と改称された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7222679