100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

熊本藩
【くまもとはん】


旧国名:肥後

(近世)江戸期の藩名。外様大藩。天正15年九州を手中にした豊臣秀吉は肥後へ佐々成政を入れたが,国衆一揆が起こり,成政はその責を負わされて翌16年領地没収のうえ切腹させられた。同年加藤清正・小西行長が入国,玉名・山鹿・山本・菊池・合志(こうし)・飽田(あきた)・託麻・阿蘇・葦北各郡は加藤氏領,益城(ましき)・宇土(うと)・八代(やつしろ)・天草は小西氏領となったが,慶長5年関ケ原の戦の結果,小西氏領は清正に与えられ,球磨郡を除く肥後一国支配の形に戻った。しかし清正は天草郡の支配を望まず,翌6年豊後大分郡・海部(あまべ)郡・直入(なおいり)郡内2万余石と交換し,ここに藩領表高54万石が確定した。なおこの頃,実高はすでに74万石程度に及んでいた。佐々氏は旧来の隈本城を本拠としていたが,清正は隈本城域を拡大して新城築造に乗り出し,慶長12年頃にはこの新熊本城が完成して引き移ったという(肥後国誌など)。同16年清正の死後子の忠広が家を継いだが,幕府の干渉もあって家臣団に動揺を生じ,元和4年重臣団の派閥争いが表面化して将軍の直裁で決着した。世に馬方・牛方の争いという。しかし忠広は寛永9年改易され,その跡には豊前小倉から細川忠利が入国し,その父忠興(三斎)は八代に入った。忠利を初代として,明治まで光尚―綱利―宣紀―宗孝―重賢―治年―斉茲―斉樹―斉護―韶邦―護久と伝える。所領高は表高54万石。内訳は「正保郷帳」によれば,飽田郡94か村・5万1,033石余,託麻郡29か村・1万9,088石余,益城郡286か村・12万3,433石余,宇土郡48か村・2万5,709石余,八代郡60か村・4万2,877石余,葦北郡30か村・1万7,534石余,山本郡33か村・1万7,387石余,玉名郡110か村・7万3,937石余,山鹿郡44か村・3万3,116石余,菊池郡67か村・2万6,463石余,合志郡60か村・3万4,691石余,阿蘇郡84か村・5万4,628石余。豊後3郡飛地領は,「寛永郷帳」によれば63か村・2万240石余であった。また寛永年間頃の実高は,飽田郡7万1,260石余,託麻郡3万264石余,益城郡18万7,120石余,宇土郡3万4,867石余,八代郡6万3,239石余,葦北郡1万9,397石余,山本郡2万6,222石余,玉名郡11万4,786石余,山鹿郡3万5,840石余,菊池郡2万8,087石余,合志郡4万8,977石余,阿蘇郡6万6,591石余,豊後3郡2万1,002石余で,総計74万7,600余石となっている(肥後読史総覧)。熊本藩も他藩同様,藩屏強化のために高を分けて支藩を創出したが,まず正保3年藩主光尚の従弟行孝に宇土・下益城2郡内で3万石を内分して宇土藩を立て,また寛文6年には藩主綱利の弟利重に蔵入地から新田3万5,000石を割いて新田藩を立てた。新田藩は江戸定府で,慶応4年には肥後に帰り,高瀬に移って高瀬藩を称した。藩の職制は一般的に番方(軍事組織)と役方(藩治・家政組織)に分けられるが,江戸初期には役方は未整備で,役方に就任した者は,身分的には番方に所属しながら,役方の職務支配も受けるという二重性をもっていた。中期以後,役職そのものを身分的に格付けするようになっていくが,藩治と家政の職分がはっきり区別されなかったため,側用人の権力が大きくなりがちであった。そこで宝暦の改革では,内局と外局との区分を明確にし,相互に不干渉の立場をとらせた。この改革によって藩政の中枢は,藩主を補佐する三家老(松井家・有吉家・米田家)の下に,中老・大奉行・大目附を置いて構成し,かつ大奉行の下に機密間を置き,また奉行職6人と12の分職を定めて職分を明らかに区分し,大奉行がこれを統轄した。家臣団は,宝暦年間頃には知行取が850人前後,その給知高総計は約41万9,000石,また切米取は約5,100人であった。なお知行取のなかでは一門衆で3万石以上が3家,家老で1万石以上4家,以下3,000石以上16人,2,000石以上11人,1,000石以上44人で,この総計で知行高は29万石に達している。加藤氏は豊臣秀吉の成長に伴い大きくなっていった家であるため,肥後入国以来,佐々氏・小西氏の遺臣のほか,在地旧豪族の多くを城下に住む家中士に編成したが,細川家は室町幕府以来の武官であり,丹後・小倉以来の多くの家臣団をひきつれて肥後に入国したため,加藤氏改易により禄を失った侍たちは農民身分に落とされた。しかしそれらを放置すれば危険な存在となるので,彼らを地方統制の役職に就かせ,士身分を与えて藩の末端機構に組み入れた。彼らは家中士に対して在中御家人と呼ばれ,明治3年に至って郷士と呼称された。彼らは家中士と違って村に居住し,はじめは地侍・地筒・郡筒などと称され,津口・要地・辺境などの警備にあたらせられた。のち一領一疋身分も生まれたが,寛政11年以後金納郷士の制ができて,医師組・留守居中小姓など17の格付けが生まれた。旧土豪層や遺臣などが任用された代表的な職に惣庄屋がある。肥後における地方支配は,加藤氏時代には10か村位を組み合わせて組をつくり,これを統率する者を頭庄屋とか組頭または大庄屋と呼び,組下の各村には庄屋を置き,その下に頭百姓・脇百姓・作人・名子などの身分があった。細川氏は前領で敷いていた手永制を採用し,手永の長として惣庄屋を置き,加藤氏時代の組・頭庄屋の制度を手永・惣庄屋制に改めた。寛永年間頃には藩領を100以上の手永に分けていたが,のち数回にわたって分合し,天保年間には51手永になっている。なお手永とは室町期の用語であるが,それを細川氏は行政区域名として用い,郡と村の中間の組織とした。1郡の手永数は少ない郡では1手永,多い所では7手永まであり,1手永の村数は少ない所で12か村,多い所では73か村に及び,大体は20~30か村であった。惣庄屋ははじめ加藤家の遺臣や国衆などが任用されて世襲したが,宝暦年間の頃から抜擢制となり,また任地も固定制から転勤制に改められた。手永では惣庄屋・御山支配役・手付横目を手永三役と称し,御山支配役は郷士身分の諸役人段から任命され,年15俵の切米が支給された。手付横目は郷士身分の一領一疋から任命され,郡中の取締りにあたり,のちには唐物抜荷改方を兼ねた。そのほか在中役人には各種の見締役・倡方などがあった。村には庄屋のほか頭百姓・払頭・村横目・勧農頭・山之口・伍長などの役付があり,これらはみな本百姓から選ばれ,小前は役付にはなれなかった。このような農村の支配体制と呼応して町方の統制には五ケ町制があった。熊本・八代の両城下町と,高瀬・高橋・川尻の3港を特別な町とし,それぞれに町奉行が置かれて在町と区別し,商工業上の特権を与えた。なお宝暦年間には宇土と佐敷および豊後鶴崎を五ケ町に準じる准町としている。藩財政についてみると,忠利の頃の現高74万余石のうち藩士の知行地は約40万余石で,残り33万余石が蔵納にあたり,寛永末年の蔵納免5割2分8厘余から計算すると,藩庫の収入は約17万5,000石余となる。しかしそのほかにも種々の雑税があったから藩庫には20万石程の実収があったと考えられるが,不時の物入りも多く,江戸初期から財政は楽ではなかった。しかしそのなかで忠利は,公務や軍役のほかは極力倹約に努め,天守銀と称する非常準備金を城内に蓄えることができた。その額は20万両を超えると考えられている。ところが孫の綱利の時代になると,彼の豪毅な性格と華美な時代の風潮に加えて,風水火災による年貢の減収とたび重なる復旧支出が増加し,天守銀は底をつき,借銀が増大した。綱利の養子宣紀が正徳2年に家を継いだ時は,幕府からの借銀は37万両にも達していた。そこで,翌年には家臣の手取を,知行取は100石につき役付23石,無役20石,切米衆は10石につき8石5斗に切り下げたが焼石に水で,享保14年にはさらに知行取100石につき15石,切米衆は10石につき2石にまでに切り下げている。財政の窮乏状態は享保17年に宣紀が死んだ時,嗣子の宗孝は江戸に向かう旅費の調達にも苦しんだほどであった。藩は銀札を発行し切り抜けようとしたが,ますます藩の信用を落とした。なお宗孝は延享4年江戸城中で誤認による刃傷のため落命した。跡を継いだ重賢は自ら質素倹約の範を示しつつ,綱紀粛正のため行政機構を改革し,また刑法や衣服制などの法制の改革を行い,文教政策としては藩校時習館と医師養成機関再春館を設立した。さらに櫨蝋の専売仕法を行い,地引合わせによって隠田畑を摘発し,20年余りをかけて藩政の立直しに成功した。この一連の藩政改革を宝暦の改革と呼ぶ。しかしその後,斉茲の頃にはまたまた収入と支出は逆転し,享和3年には再び銀札を発行したが,御蔵歩入米を組んだため銀札騒動が起こり,年内に発行を停止した。そこで請免制の実施を決意し,そのほかに3万石の米と二歩米の上納を定めたが,翌年には農民の反対により上米2万石と一歩半米とし,藩士の手取米を下げ,町在から才覚銀・寸志銀を徴収して辻褄を合わせている。文化末年には藩財政は好転しかかり,またこの頃から八代海・有明海の海辺新地の干拓も公営で実施されたが,好状況を長続きさせることはできず,再び窮乏化に拍車がかけられていった。なお文政11年の人口は,士席以上4,052,独礼以下帯刀以上1万5,393,士席浪人格及支配浪人等863,社人722,譜代の家来4,085,独礼以上育支配401,寺社支配家来1,170,百姓55万8,257,五ケ町3万2,491,坊主山伏3万843,総計64万8,277であった(肥後読史総覧)。藩政は宝暦の改革以降,時習館出身者によって動かされており,これを学校党と呼んだ。これに対して天保年間頃藩政改革を呼号したのが実学党であり,それよりさらに遅れて勤王党が発生し,以後この3党が藩政の主導権を握ろうとして互いに争って明治維新を迎えるが,明治3年までは,いわば学校党政権の時代であった。明治2年版籍奉還により正式の呼称として熊本藩を採用。この年の支配地総高78万6,015石余,元治元年から明治元年までの5か年平均現米総高30万4,838石余,免3割8分余,人口は藩士1万6,050・兵卒7万1,733・従前陪臣1万5,867・両末家藩士兵卒3,354・農55万7,430・商3万6,891・社人僧侶7,201・その他1万1,464で総計71万9,990,戸数合計14万9,197。軍事力は,兵員総数で藩士合計5万3,466を数え,うち重士強壮1,942,兵卒強壮8,304,郷兵強壮1万1,477,藩士兵卒郷兵の強壮2万6,783,職員2,261,宇土藩士兵卒職員共1,180,高瀬藩士兵卒職員共515,常備兵員として歩兵89小隊・砲兵9隊を編制,大砲仏式四斤半砲36挺・小銃旋条小銃4,272挺などを備えていた。しかしこの軍事力はただでさえ窮乏している財政を圧迫していたと思われ,明治2年には,正税30万4,838石・雑税7万3,362石の合計37万8,200石の歳入に対し,歳出は藩庁費25万7,716石・禄扶持米20万3,251石・社寺他合力米1万886石の合計47万1,854石,差引9万3,653石余の不足で,軍資金など76万両に達する負債を抱えていた。同3年7月藩政改革が行われたが,この時,それまでの貢租のうち上米2万石・口米三稜2万7,837石余・会所並村出米銭3万554石余・壱歩半米1万1,443石余の合計8万9,836石を廃止している(肥後藩国事史料)。同時に郡政局を設け,2~4郡を単位として9か所に郡政出張所を置き,郡政大・少属を配置した。なお郡政局は同月中に民政局と改められた。また8月には手永制を改めて郷組制をとり,組に里正,村に与長を置いた。明治4年廃藩置県により熊本県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7224983