健軍神社
【けんぐんじんじゃ】

熊本市健軍本町にある神社。旧郷社。祭神は健軍大神と健磐竜命をはじめとする阿蘇十二神であるが,本来は火の君健緒純(健緒組)を祀る神社であったと考えられる(熊本市史・熊本の神社と寺院)。古くは竹宮・健軍宮(たけみや),別に健軍十二社大明神宮とも称した。伝承では欽明天皇19年に阿蘇大神を勧請したのがはじまりとする。時の国司が阿蘇大神を尊崇して毎月参詣していたが,ある冬雪中に閉じ込められて大木の下で休んだ時,童子が出現して汝の心根に感じてこの地に勧請することを許すと託宣して消えたと伝える。そこで朝廷に訴えて一社を創建したのが健軍宮で,阿蘇社は皇城鎮護のために東向きになっており,健軍社は夷賊鎮退のために西向きに建てられたという(肥後国誌)。童子出現の跡と伝える大石は,今も八丁馬場と呼ばれる参道に存在する。そのほか健軍社縁起控や健軍神社明細図書などの社記には国司保昌の勧請説や承平年間創建説なども載せるが,詳細は不明。文献的に最も古いのは,「長秋記」に見える永久元年に健軍社の宮寺が焼失し,これを国司藤原国資に修造させることにしたという記事である。その後,治承4年正月に宇治惟泰は源大納言家(源定房)政所から阿蘇・健軍両社の大宮司に補任されている(阿蘇文書/大日古13‐2)。当時健軍社は村上源氏を領家とする阿蘇社の末社となっていた。惟泰の次には建久7年8月1日に惟次が継ぎ(同前/大日古13‐1),嘉禄2年には健軍社の大宮司職を三男津屋三郎惟盛が受け継ぎ(同前),翌3年阿蘇社大宮司職は嫡男惟義に譲られている(同前)。ここで両大宮司職は分離され,以後別々に相伝された。当社と阿蘇本社との本末関係の成立は11世紀末~12世紀初頭と推定される。同時期に同じく本末関係を設定したとみられる郡浦社・甲佐社とともに阿蘇別宮または三末社と呼ばれ,また阿蘇本社を含めて阿蘇四か社とも称した。鎌倉幕府の成立後阿蘇社領の預所職・地頭職を握った北条氏は,惣領の阿蘇大宮司家の所職・所帯を庶子系に分離させて北条氏との間に直接の主従関係を結ばせようとした。健軍大宮司職の分離・独立はその結果である。したがって鎌倉幕府の衰退とともに健軍大宮司職は再び惣領家の手中に帰した。健軍大宮司職は惟盛のあと,弘安元年6月24日の北条時定下文(阿蘇文書/大日古13‐1)で子息十郎惟経に安堵され,後欠で年月日未詳の健軍社文書預ケ状(同前)によれば,永仁3年に惟経の子息九郎惟久に譲られたと考えられるが,惟久以後は史料に現れない。鎌倉幕府滅亡後,健軍社の地頭職は足利尊氏に与えられた(比志島文書/神奈川県史資料編3上)。その後,元弘3年には後醍醐天皇は阿蘇三社の本所・領家職をとどめ本社大宮司惟直に管領させたので(阿蘇文書/大日古13‐1),健軍社の支配権は名実ともに本社大宮司の手に移ったと考えられる。しかし後醍醐天皇に背いた足利尊氏は,建武3年3月17日,「健軍宮領等地頭職」を大友千代松丸に与えた(立花家蔵大友文書/大友史料5)。南朝方ではこれを認めるはずはなく,延元5年3月4日には後村上天皇が甲佐・健軍・郡浦3社の管領を阿蘇大宮司惟時に確認し(阿蘇文書/大日古13‐1),興国3年6月27日にも3社の地頭職を惟時に認めている(同前/大日古13‐2)。その後も阿蘇大宮司を味方につけるため南朝・北朝両方から四か社領の安堵を行っており,その間に大宮司職は惟時から惟村―惟武―惟政と移っている。室町期の当社の詳細については未詳。応永12年の奥書を有する健軍社縁起控によると,当時健軍社は社家12人・寺12坊・小官5人・小官衆5人・宣命1人・御(巫)子1人の神職・寺坊を擁していた。天正13年閏8月の島津軍の阿蘇領侵攻により,同月18日に木山・津森が攻略された。それより先,天正11年10月に竹宮の地が島津軍に焼打ちされており(上井覚兼日記/古記録),健軍社もその時に焼失したと思われる。現宮司今丑氏の今丑系図に,30代孫五郎成時が天正の頃薩摩勢を防ぎ戦死したとあり,社記にも,元徳年間と貞治元年に修造されたあと,たびたび火災にかかり,とりわけ天正年間の佐々成政兵乱ののちは仮殿に鎮座したとあることから,健軍社はこの時期に焼失したと考えられる。その後,加藤清正は朝鮮から帰国後,前野助兵衛に命じて健軍社を再建,北原10町余を寄進し,社前の八町馬場に松杉を植えさせたと伝える。しかし宝暦年間に社領は減らされ1町余となったという。近世には社家として今牛大和・今牛左仲・今牛対馬がおり,神社付の陰陽師に江崎氏・安武氏の名が見える。今牛氏の子孫が現宮司の今丑氏。「今牛」の名は,天福2年2月11日の健軍社領肥後津守保作田人給注文写(阿蘇文書/大日古13‐1)に見え,その頃からすでに社家を勤めていたとみられる。明治維新後郷社に列格。境内には雨宮神社・美和神社・国造神社(下村より遷座)が末社として併祭され,境内外の末社として13社を擁する。神社境内および八丁馬場の杉並木敷地は市史跡。祭礼は旧来6月29日と9月晦日であったが,現在は8月7日。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7225058 |