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下市村
【しもいちむら】


旧国名:肥後

(近世)江戸期~明治9年の村名。阿蘇郡のうち。阿蘇南郷谷,御竈門山南麓の白川上流右岸に位置する。江戸末期までに上中村から分村して成立。地名の由来は,東に隣接する吉田村の城跡付近に古市という小名が残ることから,その下手の市場の意によると思われる。熊本藩領。村高は「旧高旧領」602石余。高森手永に属す。「南郷事蹟考」では,高584石余,当村は,昔,阿蘇山繁盛の時は豆腐町と称したと伝え,小村に畠ケ中村・牟田(無田)村が見える(肥後国誌)。細川家侍帳によると,当村における藩士知行地は里文太郎正隆150石・八木市郎左衛門81石余・長岡愚隠忠重200石・鎌田半兵衛正幸150石・西山氏政206石余・堀七郎兵衛150石余(肥後読史総覧)。当地の南西,白川端に鎮座する祇園社(八坂神社)は当村と下積・上中・下中・西中・松木・上久木野の7か村の氏神で,かつては広大な社領を有する南郷の総鎮守とされ,素戔嗚尊・稲田姫命を主神とし,もとは西方北山の地にあったが,朱鳥2年の大洪水で流され,その後現在地に遷座したと伝える。現社殿は元禄8年の造営という(阿蘇郡誌)。浄土真宗本願寺派徳正寺は,中村城(壇城)城主伯耆守惟冬の孫与左衛門が仏門に入って了順と号し,寛永12年本願寺に徳正寺の寺号を申請して当地に建立,同17年寺号札の許可を得て正式に徳正寺と称した。明治2年落雷で本堂・鐘楼門などを焼失,同19年本堂再建。熊本県,白川県を経て,明治9年熊本県に所属。明治初期下市小学校開設。明治6年の後藤基行覚書(一の宮町岩下氏蔵文書)によると,戸数78,人口は男187・女182。同9年一関村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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