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城村城
【じょうむらじょう】


中世の丘城。有働(動)城ともいう。山鹿市城字城に所在。城集落の北東に続く菊鹿盆地西端の丘陵の突端部に立地。標高約50m。城主は城氏,または有働氏か。城跡は主郭と二郭の2つの平坦地からなる。主郭は約80m×50mの方形で,城跡碑がたつ。東と北は5mの削落しの土手で,すそ部に幅6mほどの曲輪が巡り,その先は急崖。南も削り落とした土手すそ部から郭が数段階段状に形成される。西は城村集落と連なるため,全長90m,深さ6m,底幅10mの大規模な空堀で堀り切っている。主郭北東部は突出し,この下にさらに突出した部分が二郭で,自然の尾根を削平したものとみられ,周辺に細い帯曲輪が巡り,その先は同じく急崖となる。この城は本来菊池一族で三老臣家の1つである城氏の居城で,名字の地であったとされる。天文19年鹿子木鎮有が菊池義武を助けて大友氏に背き,没落したので,隈本城は城親冬に与えられ,この城は代わりに隈部氏に与えられたという。城村城は天正15年の肥後国衆一揆の拠点として頑強に抗戦したことで知られ,隈部親永が一揆の口火を切ったという。隈部城を攻略された隈部親永は,天正15年8月15日嫡子親泰の城村城に入城。この城を「国郡一統志」は「有動城」と記し,豊臣秀吉は「山賀之城」と称している。有働氏は隈部氏の重臣で,天正15年と推定される年未詳12月27日付の豊臣秀吉直書(小早川文書/大日古11‐1)には,「有働(兼元)事者,今度一揆張本人儀候間」とあり,総大将とされる隈部親泰より有働兼元が重視されていることから有働氏の城であった可能性も強い。「拾集物語」(肥後文献叢書4)は籠城した同城では総大将を隈部親泰,総物頭を有働兼元とし,原口の大手,西之枡形,保柳口,船尾口,出丸の妙見口,円通寺口の部署に分け,鉄砲830挺,弓500張を用意し,男女1万8,000余人が籠城したという。また「事蹟通考」は,父隈部親永が剃髪して降参したことを否定するが,天正16年と推定される年未詳閏5月14日付の豊臣秀吉朱印状(竜造寺文書/県史料中世5)では,まず親永が隈府籠城で剃髪し成政陣に「走入」ったとし,その後子の親泰に引き込まれて城村城に籠城したとある。また城村籠城末期にも寄手陣に「走入」って追い返されているなど,親永は防戦の表面には立っていない。成政は,日輪寺山から城村城の状況を把握したのち,各方面から攻めたて各所で激戦が展開された。隈部・有働両氏は籠城して成政を引き付け,国人らに一揆を起こさせて成政の本城である隈本城を包囲させた。成政は隈本城救援に引き上げ,隣国の立花氏・小早川氏らが肥後に出兵して城村城を囲み,一揆は鎮圧され,城村城も開城,親永らも下城し,立花城大手口で殺害された。なお,城の南東には中世寺院の円通寺跡があり,その東麓岩壁に十数基の半肉彫の地蔵尊が残る。合戦の戦死者を供養したものか,円通寺に関連するものか不明であるが,同じく国衆一揆の舞台となった田中城(玉名郡三加和町)の岩壁にも同様の六地蔵尊の彫刻が残る。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7225799