臼杵藩
【うすきはん】

旧国名:豊後
(近世)江戸期の藩名。外様・柳の間詰。居城は丹生島(にうじま)(臼杵)城。朱印高は5万65石余で,豊後では岡藩7万石余につぐ第2の藩。文禄3年福原直高,慶長2年太田一吉が支配という前史があったが,慶長5年末稲葉貞通が美濃国より転封してきて稲葉臼杵藩が成立,幕末に及んだ。藩主は貞通・典通・一通・信通・景通・知通・恒通・薫通・泰通・弘通・雍通・尊通・幾通・観通・久通の15代。藩域は現在の臼杵市全域および津久見市・大分市の一部を含む海部(あまべ)郡108村(うち御朱印前村84村)・石高1万8,813石余を中心に,大野郡(現三重町・野津町)168村(うち朱印前村143村)・石高1万8,104石余,大分郡(現大分市の一部)43村(うち朱印前村39村)・石高1万3,147石余の3郡にまたがった。実高は寛永11年には5万7,646石余(内検帳),元文5年には5万8,189石余(旧貫史)となった。また,元文5年当時の戸数は海部郡6,142戸・大野郡4,706戸・大分郡2,692戸の合計1万3,540戸であった(同前)。城下町には商人町として俗に「町八町」と称される唐人町・畳屋町・横町・浜町・懸(掛)町・本町・田町・新町があり,藩の経済中心地として繁栄した。また野津市(現野津町)・三重市(現三重町)・戸次(へつぎ)市(現大分市)・稙田(わさだ)市(同前)・森町(同前)は物資の集散地であり,在町として活況を呈した。主産業は紙生産であり,安永2年には専売制が敷かれた。このほか木炭・石灰・硴(かき)灰・木灰・干鰯などが知られ,幕末には一部地域で藍も栽培された。藩政面では,17世紀末5代景通が藩政機構を拡充するなどして藩体制が整備されたが,18世紀に入り深刻な財政難に陥った。このためたび重なる借銀や御用金の賦課・借知などが行われたものの事態はいっそう急迫し,紙専売などの商品統制策や人別銭などの諸運上の賦課策がとられるようになった。文化年間には中西右兵衛が「新法」による収奪強化策を断行したことから,同8年12月岡藩の一揆に刺激された不満農民が決起して,大野郡(三重市・野津市),大分郡(戸次・王ノ瀬・森町)の地域に一揆が広がった。この後も不測の財政状態が続いたが,天保元年13代藩主幾通のもとで村瀬庄兵衛が総元締となって翌年から藩政改革に取り組み,財政再建を目標にした借財整理(御手段),厳しい生活規制(倹約)の政治を進めた。なお同10~12年にかけて三重市・野津市・佐柳(さなぎ)(現大分市)・宮河内(同前)・横瀬(同前)に代官所を築造し,農村支配を強化,また同13年には藩校の学古館(のち集成館)を創設した。明治初年の戸数1万5,849・人口7万7,827(藩制一覧)。「旧高旧領」によれば大分郡のうち46か村,1万5,056石余,海部郡のうち25か村,2万2,062石余,大野郡のうち157か村,2万710石余の領地構成であった。明治4年廃藩。同年11月に大分県に所属した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7229006 |




