霊山寺
【りょうぜんじ】

大分市大字岡川に所在。豊後国大分郡稙田(わさだ)荘のうち。天台宗。山号は飛来山。霊仙寺ともいう。寺伝では推古朝の末年に来朝した天竺僧那伽が開基という。「弘安図田帳」に見える上義名・乙犬名の地頭職を帯する稙田大輔房有秀が,代々霊山寺執行職をも兼ねていたという。大神(おおが)氏系図によれば,稙田氏初代秀定以来稙田荘を本領として住し,稙田を姓としたと見える。源平合戦に当たり,臼杵(うすき)・緒方氏ら一族とともに源氏に味方し,恩賞として吉藤名・野津原郷を賜ったという4代有綱が,上義名を三男有豪に譲与したという。有秀は有豪の孫に当たり,代々霊山寺執行職を兼ねていたという。稙田氏が霊山寺と関係するようになった時期・理由はまったく不詳。有秀の4代後が史料に見える大輔有快で,建武4年に足利尊氏から霊山寺執行職および上義名・乙犬名・上乙犬名・下永冨名・吉義名・福重名・渡地など半分知行地頭職を安堵されている。これらは元弘3年以来領家に分付されていたもので,もとのごとく安堵するとある(霊山寺文書/県史料25)。南北朝の対立は,大友一族・国人衆の間でも惣庶に分かれ対立する原因となった。大友6代貞宗の五男千代松丸(氏泰)の7代家督就任に反発した長男貞順は,一族の入田士寂をはじめ国人衆の敷戸普練・賀来弁阿闍梨らとともに,玖珠(くす)郡玖珠城に籠り抵抗する。貞順勢は豊後府中奪取を企て,建武3年7月霊山に入った。同25日貞順勢は霊山寺衆徒とともに,大友氏の重臣でもある霊山寺執行稙田大輔房有快の館に押し寄せ,在家数十宇を焼払い,同荘秋弘大進房父子を血祭りにあげている。翌26日貞順勢の反乱は鎮圧された。大友貞順は,その後も筑前・筑後で反乱を起こしているが,最後は豊後国大野郡大渡で,あるいは稙田荘霊山寺で自殺して果てたともいう(大友家文書録/大友史料7)。下って天文19年4月6日,大友義鎮は入田一族の反乱に当たって活躍した霊山寺実相坊に感状を与えている(同前/大友史料19)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7234174 |