山東?
【さんとう】

旧国名:日向
(中世)鎌倉期から見える地名。日向国宮崎郡のうち。文保2年6月5日の日向在国司所職注文(土持文書/日向古文書集成・旧記雑録前1)は田部栄直が在国司の得分を書きあげたものだが,この中に「飫肥東西」30貫文のうちとして,「山西地頭名」とともに「山東分地頭名一貫二百文,同別分名六貫五百文,粮米六斗五升」と見え,飫肥が「山東」と「山西」に区分されていたことが知られる。南北朝期の康安2年8月27日一色範親宛行状(相良家文書1/大日古・大日料6-24)には,「飫肥北郷山東本政所方四分一地頭職」が兵粮料所として相良孫五郎に宛行われていることが見える。下って,天正8年2月吉日の島津氏方発給の前田兵部左衛門尉宛て知行坪付(加世田士前田茂右衛門蔵/旧記雑録後1)に,「〈おひ東〉一作配当」とあり,楠のもと・中島・松のもの・大坪・御所の前の零細地片が知行の対象として見える。また,天正19年の「日向国五郡分帳」に那珂郡を23村に分かち飫肥東方350町の記載がある。伊東祐兵が天正16年に,豊臣秀吉から与えられた朱印地1,736町のうち飫肥は700町であるので,その中の東方地域とみられる。この飫肥東方は古く飫肥院の東ノ郷の地域すなわち明治22年~昭和25年の東郷村,現在の日南市東郷地区に比定される。ちなみに飫肥藩の「御検地古今目録」(日向国史下)の慶長10年における比定地域をみると,東弁分村178町余・殿所村26町余・益安村88町余・風田村75町余,合計367町余である。ただし,この東方・西方の区分が「山東」「山西」の区分と連続するものかどうかは未詳である。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7235112 |