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琉球国
【りゅうきゅうこく】


旧国名。沖縄諸島を中心に,南西に宮古(みやこ)諸島・八重山(やえやま)諸島へと連なり,北西に連なる奄美諸島をも一時期その版図とした。この版図は成化7年(文明3)朝鮮の申叔舟著「海東諸国紀」所載の「琉球国之図」を最古に,康煕59年(享保5)の尚敬王冊封副使徐葆光「中山伝信録」所載の「琉球三十六島図」にも示されている。琉球の正史「中山世譜」首巻にも「三府五州三十五郡」「三十六島」として奄美諸島を含めている。文化圏としては奄美諸島以南を包括して南島文化圏とすることが多い。この地域は時代区分も本土とは異なり,沖縄史では前近代を普通⑴マキョ時代,⑵按司時代,⑶王国時代と区分するが,ここでは慶長14年の島津侵入以前を古代・中世とし,以後を近世とする。(古代~中世)リュウキュウの字音は「隋書流求国伝」を初見として,種々の字が当てられるが,「隋書」や「元史」の「瑠求」が沖縄を指すかは問題が多い。明代からは琉球に一定する。オキナハの字音は宝亀10年撰の「唐大和上東征伝」に「阿児奈波嶋」とみえ,沖縄と記したのは新井白石の「南島志」を初見とする。沖縄の村落はマキョあるいはクダ・フダともよばれた。村落の首長は根人といわれ,村落祭祀は根人の姉妹が根神として守護神の鎮座する御岳を中心に掌握していた。根人のうちには,こうしたいくつかの村落を統一し支配する者が成長し按司・豊見親・かわらと称されるようになった。按司時代に源為朝の子と伝承する舜天の王統(3代)が成立したといわれる(中山世鑑)。しかしこれは伝説的作為といわれ,最初の王統は次の英祖王統と考えられている(宮城栄昌:琉球の歴史)。英祖は浦添(うらそえ)を中心に支配力の拡大を図り,景定5年(文永元)には西北の諸島(久米(くめ)島・慶良間(けらま)島・伊平屋(いへや)島)が入貢し,咸淳2年(文永3)には奄美大島も王の徳をしたって入貢したという(中山世鑑・中山世譜)。奄美には按司・大親・与人・目指などの役人が置かれた(昇曙夢:大奄美史)。奄美大島・徳之島・鬼界島・与論島・永良部島の年貢などは泊地頭が管掌し(琉球国由来記),泊村には公館があった(中山世譜)。奄美諸島は以後慶長14年の島津の琉球侵入まで琉球に服属する。英祖王統3代玉城王の頃,琉球は山南王・中山王・山北王の3支配地区が対立するようになった。三山分立時代である。それぞれの支配地を「中山世鑑」は次のように記している。山南王大里按司は,佐鋪(さしき)・知念(ちねん)・玉城(たまぐすく)・具志上(頭)(ぐしちやん)・東風平(こちんだ)・嶋尻大里・喜屋武(きやん)・摩文仁(まぶに)・真壁(まかべ)・兼城(かねぐすく)・豊見城(とみぐすく)の11国。中山王は那覇(なは)・泊(とまり)・浦添・北渓(ちやたん)・中城(なかぐすく)・越来(ごえく)・読谷山(よみたんざん)・具志川(ぐしかわ)・勝連(かつれん)・首里三平等(しゆりみひら)。山北王今帰仁(なきじん)按司は,羽地(はねじ)・名護(なご)・国頭(くにがみ)・金武(きん)・伊江(いえ)・伊平也(いへや)を支配した。三山の各支配領域は,それぞれ後の島尻郡・中頭郡・国頭郡にほぼ相当する。英祖王統に次いで察度が中山王についた。察度は明の招諭にこたえ洪武5年(応安5)に入貢した。「おもろさうし」巻14-1の「もゝ(百)ちゃらの,あくてお(居)ちゃる こちゃくち(庫裡口),ちゃなも(謝名思)いしゅ あ(開)けたれ」という,多くの按司たちが,開きあぐねた宝庫を,謝名思いこそ開いたのだ,とは察度をたたえたものといわれる。山南王・山北王もそれぞれ入貢し,三山統一までに中山42回,山南24回,山北11回に及んだ。洪武23年(明徳元)には,宮古・八重山の両先島が中山に入貢してきた。しかし中山王武寧は永楽4年(応永13)に佐敷から出た尚巴志に滅ぼされ,尚巴志の父尚思紹が中山王についた(第1尚氏王統)。尚巴志は永楽14年(応永23)に山北を,次いで宣徳4年(永享元)には山南を滅ぼし三山を統一した。第1尚氏王統は65年間に7代の王が交替したように政情不安ではあったが,琉明・琉日貿易さらに南方諸国との貿易が盛んになり,尚泰久は諸寺に梵鐘をかけるなど仏教興隆にも尽力した。この頃の奄美諸島との関係は「おもろさうし」巻2-12に「中くすく(城)ねくに(根国),ねくに(根国)あ(在)つる はやふさ(隼),とく(徳)大みや か(掛)けて ひ(引)きよ(寄)せれ」とうたわれており,巻13には奄美諸島からの貢納や交通をうたうのがみられる。この頃は勝連の阿麻和利が奄美諸島への航海権を掌握し事務を司っていたと考えられている(伊波普猷選集,中巻)。尚徳は成化2年(文正元)に喜界島を攻めたが,これは財力消耗に拍車をかけた。成化6年(文明2)に代わって尚円が王位につき,第2尚氏王統となる。この王統は最後の王尚泰まで19代続いた。3代尚真は成化13年(文明9)から嘉靖5年(大永6)まで50年間在位し,その治世下で琉球の中央集権体制が確立した。尚真の事績は正徳4年(永正6)建立の「百浦添欄干之銘」の11か条や,嘉靖元年(大永2)の「国王頌徳碑」にうかがえる。それらは⑴仏教に帰依し,寺院を建立したこと。⑵臣の礼儀を正し,民を愛し租税を軽減したこと。⑶帕・簪の制を定めて身分制を確立したこと。⑷中国への入貢を3年1貢から1年1貢に改め,文物の移入を盛んにしたこと。⑸南方諸国との貿易に努めたこと。⑹神女組織を政治機構の下に組み入れたこと。玉陵を構築し,殉死を禁じたこと,などである。按司の刀狩りを行い,すべて首里城下に居住せしめたことも彼の事績とされる。尚真王期は地域支配の進展と神女組織を含めた国家機構の整備・強化の面で沖縄歴史の画期となった。版図は北は奄美地方から南は与那国(よなぐに)島に至る。琉歌に「大嶋七間切鬼界五間切,徳永良部与論那覇の地の内」と歌われている(琉歌百控)。ノロも辞令書をもって任命されている(辞令書等古文書調査報告書)。第1尚氏から第2尚氏初期の琉球は対外貿易の最盛期で,日本・朝鮮・中国・南方へと国家主体の中継貿易をした。琉球王国の確立期である。尚清の代,嘉靖18年(天文8)には「国頭・与論・永良部等地方事」を専管する「自奥渡上之扱理」が任命されている(琉球国旧記)。しかし西洋人の東洋進出,中国商人の活動,日本商人の進出により琉球の東南アジア交易は衰退した。島津氏は嘉吉元年に足利義教から恩賞として琉球を与えられたことから,琉球へは友好的関係を示していたが,対琉球貿易の独占を図るため印判不帯船の取締りなどを琉球に要請し,次第に威圧的となった。さらに,豊臣秀吉の朝鮮出兵に際しての兵粮米供出を命ぜられたが,琉球は予定の半額を出したにすぎなかった。島津は琉球の種々の無礼を責めると同時に,藩の財政危機を打開するために琉球を領国下におき,対明貿易の仲介者としての利用をもくろみ,遂に慶長14年に兵3千余,船艘千余隻をもって侵入した。(近世)島津の侵入により,奄美大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島は分割されて鹿児島藩の直轄地となった。しかし異国人に対してはこれら5島も分割されたのではなく,度佳喇島(実際は鹿児島藩を指す)から年々多く借米したが弁済することができず,この5島の産物を取納するように度佳喇島へ約束していると返答することにしている(異国人江返答之心得)。琉球の石高は慶長16年の検地により,沖縄島以下両先島まで8万9,086石となり,ほかに上木上草納物として芭蕉布3,000端・上布6,000端・下布1万端・唐苧1,300斤・綿子3貫・棕梠綱100房・黒綱100房・筵3,800枚・牛皮200枚を命じた。慶長16年9月19日には「掟15カ条」が示された。慶長の石高は,宮古島分に6,000石の誤算があったので,寛永6年の島津家久の朱印では8万3,086石となった。寛永12年の盛増で9万883石となり,享保12年の盛増で9万4,230石となり廃藩置県に至った。琉球は形式的には中国の冊封体制の中にあったが,実質的には鹿児島藩に仕える形となり,薩摩は琉球の「御国元」となり,年頭使ほかの使を遣わし(大和上り・上国という),将軍襲爵時には慶賀使を,国王即位時には謝恩使を派遣した(江戸上りという)。鹿児島藩は琉球の対中国貿易を統制し,宗教統制などの諸政策を実施した。こうした状況下で向象賢羽地按司朝秀は政治の中枢にあって,質素倹約・風紀の粛正・王城内の女官権限の縮小・農村の振興・諸芸の奨励・迷信の打破などを打出している(羽地仕置)。また日琉同祖論を説き,その思考は「中山世鑑」に反映している。彼は行政区画の改善をも行った。「琉球国旧記」巻2,取納奉行の条に,往昔の7代官制として,首里・東・島尻・浦添・越来・今帰仁・久米の7代官とその管轄間切名があげられており,慶長以前の制度と考えられている(東恩納寛惇:南島風土記)。これを順治17年(万治3)に島尻・中頭・国頭・久米の4代官制とし(琉球国旧記),首里三平等・島尻方・中頭方・国頭方の管区名もこの時設定されたと考えられる(東恩納寛惇:南島風土記)。寛文・延宝期には仕明(開墾)の奨励に伴って間切の再編成を行った。康熙5年(寛文6)に国頭方久志(くし)・伊野波(いのは)(翌年,本部(もとぶ)と改称)の両間切,中頭方美里(みさと)間切を建て,康熙10年(寛文11)に中頭方宜野湾(ぎのわん)間切,翌年に島尻方小禄(おろく)間切,その翌年には国頭方恩納(おんな)・大宜味(おおぎみ)両間切,康熙15年(延宝4)に中頭方与那城(よなぐすく)間切が建てられた(乾隆二年帳・球陽)。琉球の政治機構・身分制度・土地整備などは近世以前のものを継承するが,政治機構は摂政を頂点にその下に三司官(さんしかん)があり,三司官は申口座・物奉行所を統轄する。申口座は鎖之側・双紙庫裡・泊地頭・平等所を,物奉行所は所帯方・給地方・用意方を統轄する。身分制度は尚真王朝に大名・士・百姓の身分制度が確立したが,近世期には諸士に系図の作成を命じ,1部は系図座に格護し,1部は各家に蔵させ以後は仕次をする。士族統制は前代の辞令書によるものから家譜へと移る。以後は系持(治者階級)と無系(百姓)に区分される。土地制度は百姓地・役地・仕明地の3種に分けられる。土地は一定年限ごとに割り替えられた(地割制度)。近世末期には欧米人の来航が相次いだ。文化13年来航のイギリス海軍所属のアルセスト号・ライラ号は近海の測量をしており,弘化3年には宣教師ベッテルハイムが来琉し布教した。嘉永6年にはペリーの来航をみ,翌年の日米和親条約締結後に再び来琉して米琉修好条約を締結した。ほぼ同じ内容の条約がフランス(安政2)・オランダ(安政6)とも締結された。(近代)明治4年の廃藩置県により鹿児島藩は鹿児島県となり,琉球は同県の管轄下に入れられた。翌5年には琉球藩となり尚泰は琉球藩王として親任され華族に列せられた。明治政府は明治6年には国旗を下付し,同年冬には天皇・皇后の御真影を下賜している。明治4年の宮古貢納船の台湾漂着に端を発し,明治7年の征台の役を経て,琉球の廃藩置県は前進し,明治12年に断行された。しかし土地・租税・地方制度・秩禄制度などは改革はなされず,明治32~35年の土地整理までそのまますえ置かれた(旧慣温存期という)。明治29年には沖縄県に郡区編成の勅令が出された。明治期の「沖縄旧慣地方制度」(明治26年刊)での行政区画と村数は次のようである。首里(真和志之平等9村・南風之平等6村・西之平等5村の20村),那覇(4村),久米村・泊村。島尻方には15間切あり,真和志(まわし)(12)・豊見城(21)・小禄(15)・兼城(9)・南風原(はえばる)(10)・大里(おおざと)(20)・高嶺(たかみね)(4)・東風平(11)・具志頭(6)・玉城(13)・真壁(9)・摩文仁(6)・喜屋武(5)・知念(11)・佐敷(9)の161村。中頭方は11間切で,西原(18)・浦添(14)・宜野湾(14)・中城(23)・北谷(12)・読谷山(16)・越来(10)・美里(18)・勝連(8)・与那城(9)・具志川(15)の157村。国頭方は9間切で,恩納(10)・名護(13)・金武(7)・久志(13)・本部(18)・今帰仁(20)・羽地(17)・大宜味(16)・国頭(16)の130村。さらに離島では伊江島(5)・伊平屋島(8)・粟国(あぐに)島(13)・渡名喜(となき)島(1),慶良間(けらま)島には2間切あり,渡嘉敷(とかしき)(4)・座間味(ざまみ)(5),久米島も2間切で具志川(9)・仲里(10)である。先島の宮古は3間切1島で,平良(ひらら)(12)・砂川(11)・下地(しもじ)(12)・多良間(たらま)島(3)の38村。八重山も同じ3間切1島で,大浜(9)・石垣(11)・宮良(みやら)(11)・与那国島である。明治30年に間切島吏員規程が施行され,土地整理を経て明治40年に沖縄県及島嶼町村制が公布され,翌年から施行された。施行に先立ち間切を村とし,村または島を字と改称した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7239520