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運天港
【うんてんこう】


沖縄本島北部の本部(もとぶ)半島東部にある県北部唯一の重要港湾。方言ではウンティンンナトゥという。「おもろさうし」では「うむてん」,「海東諸国紀」の琉球国之図では「雲見泊 要津」,「中山伝信録」では運天津,「バジル・ホール探検記」ではポート・メルヴィル(Port Melville)と見える。島軸と本部半島が接合して形成する湾入の奥まった場所に立地する天然の良港で,避難港としてもよく利用され,現在も国の避難港に指定されている。対岸には屋我地島があり,港の南に続く運天水道は水深が深く潮流が速いことで知られる。付近一帯は沖縄本島北部西岸の沖縄海岸国定公園の一部で,景勝地でもある。現在運天港は今帰仁(なきじん)村運天と上運天に2つの埠頭を有するが,古来運天港と称されてきたのは運天の埠頭で,運天には王府時代に番所が置かれ,引き続いて大正5年まで今帰仁村役場が置かれて,行政の要衝地であった。「おもろさうし」巻14-46,No.1027には,一せりかくののろの(勢理客のノロの) あけしののろの(あけしのノロの) あまくれ おろちへ(雨くれを降ろして) よるい ぬらちへ(鎧を濡らして)又うむてん つけて(運天に着けて) こみなと つけて(こ港に着けて)又かつおうたけ さがる(嘉津宇嶽下がる) あまくれ おろちへ(雨くれを降ろして) よろい ぬらちへ(鎧を濡らして)又やまとのいくさ(大和の軍) やしろのいくさ(山城の軍)と謡われている。これは,今帰仁村の勢理客のノロ,あけしの神女がお祈りして,嘉津宇嶽にさがる雨雲を呼んで雨を降らし,鎧をぬらして,大和から押し寄せてきた軍勢の上陸を阻止しようと呪詛をしたものである。なお「こみなと」は,大井川の河口にあるテイミナト(炬港(たいみなと))で,「こ」は「て」の誤記との説もある。また,源為朝が来琉途中で暴風にあい「運は天にあり」とこの地に漂着したとの伝説をも生じた。慶長14年3月4日山川港を発進した琉球侵略の島津軍も3月25日に侵入している(喜安日記・琉球渡海日々記/那覇市史資料1‐2)。その後,琉球~薩摩間の航路基地ともなり,中国の冊封使来琉の際には,薩摩船は運天港を利用した。近世末期の嘉慶21年(1816)にはバジル・ホールが来琉し,随伴フリゲート艦ライラによって沖縄本島北部巡検にあたった際,その良港たることを認め,当時のイギリス海軍大臣メルヴィル子爵にちなんで,ポート・メルヴィルと命名した(バジル・ホール探検記)。ペリーもまたこの港を探険している(ペリー訪問記)。日露戦争中には燃料給水の補給基地として使用された。大正期~昭和初期には奄美諸島(鹿児島県)や近隣離島との間の交通要地となり,流通の中心地として畜産物・サトウキビ・黒糖などを取り扱った。大正初期には今帰仁村仲宗根に台南製糖の工場が設立され,工場までレールが敷設され,トロッコによりサトウキビなどが運搬された。第2次大戦末期には日本軍の高速輸送艇・特殊潜航艇・魚雷艇の基地となったが,終戦直後は一時米軍輸送船団の駐屯基地として使用された。また戦後しばらく続いたスクラップブーム時代に本土へのスクラップ積出港として利用があったことは,三島由紀夫の「潮騒」からもうかがえる。昭和34年に仲宗根の台南製糖工場跡地に設立された北部製糖今帰仁工場が,従来の運天港に隣接した上運天小字親川原に同35年仮岸壁を建設した。この岸壁は水深5m・長さ36m,1,000t級の船舶が出入りできる。この場所はかつて浮田の港と称されていたところで,仮岸壁の建設は,今帰仁村を中心とした国頭(くにがみ)地方の広い農業地域を後背地とする運天港の機能を再開させた。同年4月には米民政府の援助で水深6m・長さ95mの2,000t級船舶接岸用埠頭の建設に着工,同年9月重要港湾に指定された。同38年埠頭完成と同時に今帰仁村が譲り受け,村営としての港湾業務が本格的に開始された。同47年の復帰に伴い日本港湾法が適用されたため県庁管轄に移行,同50年に開催された沖縄国際海洋博覧会の資材の陸揚場となったことから近代港湾として整備拡充がなされた。現在,ターミナルビル・保税地域・倉庫5棟・埠頭400mが完成し,水深7mの水路浚渫により1万t級船舶接岸用の岸壁がある。主な取扱荷物として,移出品にチップ・糖蜜・砂など,移入品に砂糖・飼料・サイロタンク・空缶・空ビン・パイルなどがある。字運天にある埠頭は北東沖の古宇利島(今帰仁村)を結ぶ連絡船の発着,レジャー・漁業基地として利用されており,字上運天の港湾とも連絡されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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