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名護城
【なごぐすく】


沖縄本島北部,名護市名護小字城・以上原に所在する城。方言でナングシクという。名護市街地の東方,名護岳西麓に立地。中腹のやや平坦な地域を中心に4か所の遺跡群を構成し,グスク時代中期から近世にかけての遺物が採集される。主な遺物は,グスク系土器・類須恵器,中国製の青磁・染付・沖縄製陶器のほか凹石などの石器で,城の上方ほど時期が古く,下方は近世の遺物を主とする。明治20年代に,城内の古墓から人骨と4面の鏡が出土したといわれる。名護城は,近世以前の集落跡であり,近世以降には名護間切名護村の御嶽であった。伝承では,14世紀初頭,中北山(なかほくざん)系統の名護按司が今帰仁(なきじん)城から分かれてこの山上に城砦を構えたといい,周辺の丘陵には,按司の支配する城村があったという(名護町六百年史)。永楽14年(1416),尚巴志の率いる中山(ちゆうざん)軍が北山王攀安知を攻略した際,名護按司は国頭按司・羽地按司・読谷山按司・越来按司・浦添按司とともに,中山軍に加担した(球陽尚思紹王11年条)。その後,尚真王(1477~1526在位)の中央集権策で,16世紀初頭名護按司も首里城下に集居させられたという。口碑によると,名護城を最初に下りて形成された集落は宮里で,次いで東江(あがりえ),大兼久,数久田(すくた),幸喜,世冨慶(よふけ)の順に下向分散したという(名護町六百年史)。名護城の拝所は遺跡の区域と重なっており,上方の広場近辺には神アシャギや古墓・拝井泉があり,西側斜面にはノロ殿内・根神屋・ウチ神屋・フスミ屋・イジグチ屋などのカミヤー(神屋)が設けられ,また兼久田門中の祀る名幸祠もある。御嶽としての名護城は,「由来記」にはテンツギノ嶽,神名イベヅカサと見える。この御嶽をめぐる年中祭祀は第2次大戦後簡略化されたが,かつて神役にはノロクモイ・内神・拵神・根神・よもい・屋取原根神の女神,また男神としてちんぎゃ大勢頭・思ひ勢頭・かんぶい神・原廻神・田魚勢頭ほか3名がいた。祭祀も,正月元旦,3月の麦穂祭,5月の稲穂祭,6月の大祭,6月25日の御祭,7月ウンジャミ,8月10日の御祭,9月の宮種祭(稲の播種祈願),9月の御祭,10月の火の御願,11月の御芋御祭が,名護ノロを中心に執り行われていた(大正4年写なん城御祭典日記)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7241296