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白糠村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。北郡のうち。盛岡藩領。田名部【たなぶ】通に属す。村高は,「正保郷村帳」38石余(田27石余・畑11石余),「貞享高辻帳」48石余,「邦内郷村志」22石余(うち畑18石余),「天保郷帳」「安政高辻帳」ともに48石余,「旧高旧領」22石余。「仮名付帳」では,枝村に老部村がある。「邦内郷村志」では,家数59,人数333,漁船9,塩釜1。「本枝村付並位付」によれば,位付は下の下,家数37。また老部村も位付は下の下,家数10。松浦武四郎の「東奥沿海日誌」に「此処砂浜にして東向。則ち起宝山の東北に当りける。人家四十軒斗立並びたり。漁者にして稗を作れり。又家々にて皆塩を取れり。其取かた内の飯炊釜にて汐を汲来て焼事也」とある。枝村の老部村の地名の由来は,アイヌ語系でオイッペから来ていると考えられ,多くの水が出て来る所または川尻に水がある所の意味と思われる(下北半島地名考)。また一説にはオイ・ペチの転訛したもので,魚が沢山いる川の意味ともいう(東通村誌)。老部村の家数は享和2年・文政12年ともに10(同前)。また正保4年勧請の両皇神社があり,祭礼は6月18日。明治元年弘前藩取締,以後黒羽藩取締,九戸県,八戸県,三戸県,斗南【となみ】藩,斗南県,弘前県を経て,同4年青森県に所属。明治初年の戸数77,村況は「海岸二丈より高き所に住す,屋後ほ山なり」とある(国誌)。同11年下北郡に属す。同12年の「共武政表」によれば,戸数82,物産は鮑・干鮑・鰹節・鯣・昆布・若和布・布海苔・塩・薪。また老部の人口は男128・女128の計256。同年借家にて白糠小学が開校,同15年の生徒数は男11・女1の計12(県学事年報)。明治13年老部小学が開校,同15年の生徒数は男9・女1の計10(同前)。明治14年「陸奥国漁船取調表」では釣用船138(下北郡役所資料)。同22年東通村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7251226