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百石村(近代)


 明治22年~昭和4年の上北郡の自治体名。大字は編成せず。役場は西南によった上明堂【かみあきど】に置いた。明治16年に開校していた一川目簡易小学校は,同22年百石尋常小学校一川目分校となり,合わせて二川目分校も設立された。明治24年の戸数332・人口2,139,厩130,学校3,水車2,船92(徴発物件一覧)。同42年の戸数583・人口2,139(三本木産馬組合要覧)。明治24年下田村との間で境界変更実施。鰯漁が始まると,百石・三沢の漁船は三戸郡の沿岸にも進出するほどであったが,一方では「陸奥東海ノ漁村ニ於テハ,漁期前鰮網及水夫雇入レ際,八戸及ビ野辺地等ノ海産商ヨリ借入レ,終漁ノ後返却」(明治24年県水産事項特別調査書)するという。同24年の「県上北郡統計書」には,醸造場2か所があって清酒570石・濁酒23石を製造していたし,商業も仲買11・卸売2・小売53あって,かなり発達していた。それが同29年三陸大海嘯によって,死者140・負傷者154・流失戸数165という漁村壊滅の被害をこうむった(百石ノ今昔)。以来,鰯も薄漁となり漁民の生活は困難をきわめた。その中でも,同33年青森地方法務局百石出張所の設置,同39年一川目青年会,同42年藤ケ森青年団,同43年堀切川青年団・根岸青年団の創設が相次ぎ,翌44年には百石少年会が誕生している。同45年百石信用組合が設立され,農業振興も図るが,畑作が主であった。大正3年に百石蚕糸会(同12年百石養蚕組合と改称)が設立されている。大正6年電灯がついた。しかし物資の集散地としては,ことに商業が盛んで,同8年百石~下田間に乗合自動車が通るなどにぎわっていた。それとうらはらに,年々北海道へ出稼ぎする者が増え,年間600~700人にもなってきたという(上北新誌)。大正9年の世帯数743・人口4,491。昭和4年町政施行。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7252573