興田保(中世)

室町期に見える保名。初見は室町期だが,保の成立は平泉藤原氏の12世紀頃と考えられる。隣接の奥玉・黄海【きのみ】保などと同じく,開発の進展により岩井郡から分離,独立の行政単位となったものとみられる。保の領域は興田川(砂鉄川の支流)流域の山間部。鎌倉期の地頭は葛西氏であった。文治5年奥州合戦ののちに葛西清重が賜った「五郡二保」のうちに入る(中尊寺文書嘉元3年3月日衆徒等言上状・余目氏旧記)。葛西氏の統治は室町・戦国期に至るまで存続して,豊臣秀吉奥州仕置の天正18年にまで及んだ。興田鳥海の妙見神社には,室町・戦国期の棟札が3点残されている。明応7年社頭造営の火檀那と記されている平宗清とは葛西氏の当主か。大永4年葺上の大檀那には平朝臣満親・源朝臣清堅,同じく天正6年葺上の大檀那には平義重治部少輔と記されている。このうち平義重はやはり葛西氏の当主か。このほかにも,大永の棟札には,助成者として鳥海宗頼,神田の寄進者として同じ鳥海宗頼と渋民親時,天正の棟札には,両檀那,平朝臣胤持・源朝臣胤頼の名が見える。鳥海・渋民は近隣の地名。平・源の両人には「興田之住人」と注記する。これはいずれもこの地の土豪か。戦国期には,興田は沖田村とも呼ばれ,天正7年3月27日の葛西晴信宛行状によれば,石川丹波守に対して「沖田村ニ而三千苅」が給与されている(平泉中尊寺地蔵堂文書)。興田の一帯は,及川党の本拠地。永禄初年の及川一族の擾乱で勢力は後退し,大原氏に圧倒される。大原地区には遅沢城・中川城・柏木城(鳥海城)・川股城(川島館・西館)・月館・天狗田城などの城館跡があるが,先の戦いで大原氏の攻撃を受けている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7253213 |




