100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

奥玉保(中世)


 鎌倉期に見える保名。領域は奥玉川(千厩川の上流)流域の山間部。岩井郡・興田保・黄海【きのみ】保などと隣接する。成立は平泉藤原氏の12世紀の頃か。開発の進展にともなって岩井郡から分離,独立の行政単位となったとみられる。鎌倉期の地頭は二階堂氏であった(二階堂文書欠年月日所領配分注文)。二階堂氏は鎌倉幕府の高級官僚の家柄。相模・三河・尾張・伊勢・肥前・安房などの諸国に所領があった。奥州でも奥玉保のほか信夫荘(福島県)内にも所領があったことが知られる。しかし,鎌倉後期には二階堂氏にかわって北条(金沢)氏が当保の地頭となる。正応4年坂上国長は起請文を記して,「かみ(上)の□(御カ)ために,いさゝかの御うしろくら(後暗)きこと,みかくし(見隠),ききかくし(聞隠)つかまつるましく候」を誓った(金沢文庫古文書)。「かみ」とは北条氏を指す。この場合には金沢文庫の創設者たる金沢氏がそれにあたる。坂上国長は金沢氏の代官として奥玉保に赴任したものとみられる。鎌倉幕府の滅亡後,当保には葛西氏の勢力が浸透し,室町・戦国期には広大な葛西領国の一部となった。同時に保としての独立性も失われたとみられる。元亀3年には今野満五郎に対して,「岩井郡奥玉村之内本領,無相違宛行者也」と記した葛西晴信の印判状が出されている(興田金文書)。また,金野右膳宛葛西晴信印判状には「下奥玉村」が見え,戦国末期には上・中・下に分村したとみられる(金野氏系譜所載文書)。天正18年,豊臣秀吉の奥州仕置によって葛西氏の統治は終わりを告げ,かわって上方大名,木村吉清が入部するに至った。だが,葛西・大崎一揆によって木村氏が失脚,天正19年には旧葛西領は伊達政宗が拝領することとなった。当地には,立花城(一六花館・橘館・二日市館)・牛生蓮館(館)・此手館(天梅館)・殿金沢館・要道館の中世城館跡がある(仙台領古城館)。これらの城館の主は千葉氏と伝えられ,立花城を中心に奥玉一帯には千葉氏の勢力が強かったようである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7253220