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織笠村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。閉伊郡のうち。盛岡藩領。大槌通に属す。村高は,「正保郷村帳」211石余(田131石余・畑79石余),「貞享高辻帳」264石余,「邦内郷村志」244石余(うち給地110石余),「天保郷帳」297石余,「安政高辻帳」264石余,「旧高旧領」244石余。「仮名付帳」では枝村に轟木村がある。天保8年の「御蔵給所惣高書上帳」によれば,村高240石余のうち蔵入地198石余・給地46石余。「邦内郷村志」によれば,家数110,集落別内訳は田子ノ木【たねのき】38・根井沢9・跡浜12,馬269。「本枝村付並位付」によれば,位付は中の下,家数133,集落別内訳は本村69・跡浜16・根井ノ沢5・田子ノ木47。古くは白石―田子ノ木―外山―宮沢峠―金沢が主要道路であったが,その後白石―轟木―馬指野―鯨峠―大槌の鯨通りが開削され,寛永20年に藩命により霊堂と馬指野の萩野原に一里塚が築かれた。慶長19年から元和・寛永年間の検断は千助。元禄年間の肝入は覚右衛門,御山守は九郎左衛門。文政年間の肝入は長兵衛,御山守は与平治。慶長19年津波が襲来し,「織笠村霊堂人死知れず」と記されている(梅荘見聞録)。寛永20年山田浦にオランダ船プレスケンス号(60人乗)が漂着し,船長スハープ以下10人が地内細浦に上陸したが,盛岡から遣わされた七戸隼人・漆戸勘左衛門の2人に捕らえられ盛岡を経て江戸に送られた。明和年間鞭牛和尚は地内三本小松,新田~鯨山の東麓を通り浪板にぬける裏街道を開削する。寛保4年竜泉寺焼失,寛政年間の大火では竜泉寺薬師堂を焼失する。天明元年給人昆九郎左衛門は織笠地付漁並鮭建網のことについて代官所に願い出ており,同4年に藩の俵物支配元の問屋をつとめる。飢饉続きの同年昆九郎左衛門は商名を織笠村九兵衛と仰付けられ,当村137軒のうち窮迫の者100軒に1軒につき銭1貫500文ずつの銭高150貫文,船越村300軒のうち窮迫の者40軒に1軒につき銭700文ずつの銭高28貫文,大沢村159軒のうち窮迫の者21軒に1軒につき銭700文ずつの銭高4貫文の計192貫文を差し出す(大槌支配録/山田町郷土史料集)。また九郎左衛門は勘定奉行をつとめるとともに十分一役所の館人となった。寛政4年織笠浦の九兵衛所有の廻船八幡丸・長栄丸は,1艘に付き15両の冥加御前金の上納を命ぜられている(同前)。文政年間常陸那珂湊において跡浜の昆富右衛門・昆与四郎・竹内長兵衛・昆六平は海産物の取引きをしている(諸国御客面附留抜粋/山田町郷土史料集)。天保11年織笠浦の雑船は小天頭2丁立9・五大力4丁立2・小与板3丁立1の計12艘(大槌通御代官所諸船塩釜御改帳/同前)。神社は八幡宮,寺院は曹洞宗竜泉寺がある。寺子屋は寛政元年開塾された稲川塾(神職稲川登)があり,寺子300人を数えた。このほか山伏東響院も知られる。明治元年松本藩取締,以後江刺県,盛岡県を経て,同5年岩手県に所属。同12年東閉伊郡に属す。同4年の村長は昆与四郎。同5年の戸数241・人口1,719。同9年轟木村を合併。民家を借りて織笠小学校が開校,同15年白石の民家を借りて織笠分校を開設。昆半で知られる昆半兵衛は海産業により巨万の富を重ね,大庄屋・郡長・戸長をつとめるとともに道路・橋梁・学校の建設や貧民救済に尽くした人として知られる。明治11年の村の幅員は東西約30町・南北約18町,税地は田40町余・畑131町・宅地9町余・切替畑12町余・荒地13町余の計208町余,戸数284・人口1,415(男714・女701),牛20,馬193,舟68(商船3・漁船65),織笠小学校の生徒数46,職業別戸数は農業209・雑業73,物産は牛・馬・鮭・鮪・鰯・鯣・ナマコ・帆立貝・米・大豆・小豆・大麦・小麦・粟・稗・蕎麦・黍・薪・藍・麻(管轄地誌)。同22年市制町村制施行により単独で自治体を形成。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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