100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

野田(中世)


 戦国武士野田氏の本拠地。久慈郡もしくは閉伊【へい】郡のうち。野田氏は一戸南部氏の分流。三戸南部11代伊予守信長の子,親継が一戸家に入り,初めて当地に居住したという。親継の卒年は南北朝期の興国元年とされる。その後,子孫あいつぎ,永禄・天正頃には久慈郡(のち糠部郡九戸)屈指の勢力となった。南部晴継の股肱の臣として,野田掃部の名が知られる(奥南旧指録)。野田左衛門は天正19年九戸籠城の人数に加わった(同前)。野田掃部政義は南部方に属して九戸城を攻撃した。「福岡川島文書」には「野田殿」宛の南部信直書状が数通も残されている(県戦国期文書Ⅰ)。九戸攻略を果たした野田氏の役割の大きさが知られる。九戸御陣御人数積には,「千石,卅人 野田掃部助 長五・鉄三・弓二」と記されている。慶長6年岩崎御出陣人数定にも,「番頭一騎 野田掃部 此下廿六人」と見える(野田氏の系譜は県史3‐449頁)。野田城は城内海蔵院西側の台地にある。東側の丘陵基部に空濠の跡が残る。200m×100m。標高40m。天正20年「諸城破却書上」には,「糠部郡之内 野田 山城破却一戸(野田)掃部助持分 唐之供留守岳角蔵」と見える(城郭大系2)。近くの三日市場にある古館の詳細は不明。あるいは,三日市場古館が野田氏の初期の館で,古館破却後,城内の新館へ移ったともいう。無量山海蔵院は野田氏の菩提寺。文治2年創建と伝え,平重盛にまつわる伝説がある(海蔵院由来記)。寺内には,開山の由来,重盛の法名を刻む室町期の石稗,南北朝期かと推定される礎石,野田氏の墓碑群,江戸中期の豪商前川善兵衛富昌寄進の薬師像2体などがある。愛宕神社は海蔵院の守護神であったと伝え,南北朝期の創建と推定されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7254569