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稗貫郡


文治5年奥州合戦の結果,当郡は鎌倉勢の占領下に置かれた。不作のうえに多勢の逗留が重なって飢えた人々を救うために,源頼朝は種子・農料を出羽国方面から調達,「和賀・部貫両郡」分は秋田郡から運ばせることにした(吾妻鏡文治5年11月8日条)。同じく,「吾妻鏡」文治5年9月23日条には,奥州藤原氏によって伝領された「奥六郡」の内容として,「伊沢・和賀・江刺・稗抜・志和・岩手」の郡名が記されている。「吾妻鏡」に記された,この「部貫」「稗抜」の名称が中世における当郡の初見である。鎌倉期,当郡の地頭名を明記した史料はない。ただし,陸奥国宮城郡山村の地頭大河戸氏の一族,朴沢数之助の家に伝えられた,「けんかう」(元亨か)2年6月11日「ふちわら(藤原)の女,ほうみやう(法名)しやうくう(性空か)」が「さしま(辛島)の女し(子)まこさつ御前」に与えた譲状(写)には,「へぬきのこほり(稗貫郡)のうち,たろうのむらいや二郎やしき(屋敷),ゑとうき□たやしき,しん二郎さいく(細工)やしき□さいけ(在家),あハせて,た(田)五ちやう(町),さいけ(在家)五う(宇)」と見える(東北大学文学部国史研究室所蔵朴沢文書)。大河戸氏は武蔵国大河戸御厨を本貫とする御家人。藤原秀郷の流れを汲む。武蔵・陸奥のほか伊与国にも所領があった。この大河戸氏が鎌倉末期,稗貫郡「たろうのむら」の地頭であったことはほぼ確実である。また,「南部文書」建武元年4月晦日多田貞綱書状に「戸貫出羽前司」,「結城文書」興国2年後4月20日五辻清顕書状に「薭貫出羽権守」と見える人物は,陸奥国司北畠顕家が北奥支配のために置いた現地奉行の1人,中条出羽前司時長その人であった(遠野南部文書建武元年6月12日北畠顕家御教書,新渡戸文書年欠2月20日安倍祐季書状追伸)。時長はまた北条氏の遺領,糠部【ぬかのぶ】郡一戸を賜ったことも知られる(遠野南部文書建武元年10月6日陸奥国宣)。稗貫出羽権守=中条時長の北奥における卓越した地位は,稗貫郡の地頭であったことによるとみられる。鎌倉中期の建長8年,幕府より奥大道の夜討・強盗の警固を命じられた道筋の地頭24人のうち,(葛西)壱岐六郎左衛門尉・同七郎左衛門尉・和賀三郎兵衛尉・同五郎兵衛尉と並んで記された出羽四郎左衛門尉とは,中条光宗の異称にほかならない(吾妻鏡康元元年6月2日条所載の関東御教書,また同書建長2年8月18日・弘長3年8月9日条などにも中条出羽四郎左衛門尉の呼称が見える)。この中条光宗を稗貫郡の地頭とする明証はないが,その蓋然性は非常に強い。鎌倉期の奥大道は葛西氏の磐井・胆沢・江刺方面から,和賀郡を経て,中条氏の稗貫郡にまで及んでいたのである。中条氏は武蔵国横山党小野氏の流れを汲む。同国埼玉郡小野保を本貫とする御家人。初代は中条兼綱。義勝房法橋盛尋ともいう。兼綱の子,家長は八田知家の養子として立身し,関東評定衆・出羽守となった(群書7所収小野氏系図など)。「尊卑分脈」では家長に続いて,時泰―家平―時家―頼平―景長―時長―長秀と記されている。建武年間北奥現地奉行として活躍した中条出羽前司時長は家長6代の孫にあたることが知られる。鎌倉中期の光宗の名は見えないが,種々の理由から時家はその別称になると考えられる。隣接の和賀郡地頭職が同じく中条兼綱を始祖として,西念(義秀)―行蓮(義行)―泰義……と続く中条=和賀氏によって相伝されたことを考え合わせるならば,稗貫郡地頭職もまた,兼綱=盛尋または家長の鎌倉初期まで遡ることになるのではないか(以上,当郡の地頭を中条=稗貫氏とする考証の大略は「北上市史」2によって既になされている)。このような想定が当たっているとするならば,鎌倉末期の「けんかう二年」における大河戸氏の所領は,中条氏が知行する稗貫郡地頭職の全体に対して,その一部分を構成するもの,すなわち一分地頭職であったということにならざるを得ない。大河戸氏が郡内の一部分を相伝し得たのは,中条氏との縁戚関係によるものか。建武年間,陸奥国司北畠顕家の麾下に属して現地奉行として活躍した稗貫=中条時長はその後,足利方に与して宮方と戦うこととなった。隣接の和賀=中条氏もまた足利方に属した。「結城文書」興国2年閏4月20日五辻清顕書状には,「薭貫出羽権守一族等宗者共数輩討取了」,同じく5月16日法眼宣宗書状にも,栗屋河において「部貫党」と合戦し打ち勝たしむとあり,稗貫氏が宮方の攻略の対象となっていたことが知られる。「遠野南部文書」興国2年12月20日五辻清顕書状にも,「和賀・薭貫辺」に馳せ向かうべしとある。また,法眼宣宗書状の「部貫党」という表現は,稗貫氏内部の構成が比較的平等な人間集団,すなわち一揆的な状態となっていたことを物語っている。似内・小山田・八沢(安俵)・亀森・大迫・八重畑・久貫・矢沢・新堀など,稗貫の分流と称される諸家(瀬川稗貫氏系譜)が簇出して,主家と肩を並べるような状態となっていたものと考えられる。奥羽における国人一揆の先駆と称しても過言ではない。南北朝期を過ぎて室町期に入る頃,奥州探題大崎氏の覇権が確立するや,稗貫氏はその傘下に属した。「余目氏旧記」によれば,大崎に祗候する奥羽両国諸侯のうちで,稗貫氏の着座順は,桃生・登米・深谷・相馬・田村・和賀と同じく,第3位にランクされている。1位の伊達・葛西・南部,2位の留守・白川・蘆名・岩城などには及ばないとしても,奥羽政界における中堅としての地位を,稗貫氏が確保していたことが知られる。また,「蜷川家記」天文24年には,「奥州上洛衆稗貫大和守義時,得御意候,黄金十両進候,鷹御約束申,竹鼻令同道下,稗貫家来,十二町目下野守・万町目・駒牧内膳助・杉田出雲守・湯口大蔵丞,貴殿へ得御意候」とある。はるばる上洛を果たして室町将軍家に拝謁を行った稗貫大和守の狙いが,北奥大名としての地位確立にあったことは明白である。十二町目・万町目・駒牧(板か)・湯口などは「稗貫家来」と記されてはいるが,主家と肩を並べるような地位を保持していたと考えられる。戦国大名権力の確立をめざしつつも,一揆的・党的結合原理をなお脱却し得ないという過渡的状態であった。いずれが主家とも定めがたいこのような一揆的状況は,この時期における稗貫氏の世系が錯綜,混乱している原因ともなっている。室町・戦国期における稗貫氏の支配領域は「稗貫五十三郷」と称された(吾妻むかし物語)。稗貫郡内一円の郷村がその範囲に含まれるとみられる。稗貫氏主家の居城は花巻鳥谷ケ崎【とやがさき】城。応仁2年円満寺に梵鐘を寄進した「大檀那稗貫城主藤原千夜叉丸」とは,鳥谷ケ崎城の当主か(県金石志)。ただし,享禄年間以前の居城は瀬川の十八【さかり】ケ城(本【もと】館)にあったとも伝える。領内の各郷村にも城館が築かれ,稗貫の一族・家臣が割拠していた。天正18年8月,小田原陣不参の咎をもって,稗貫氏の所領は没収と決まり,豊臣秀吉の代官浅野弾正長吉が鳥谷ケ崎城に乗り込んで仕置を開始,駐留50余日に及んだ。長吉は山林に逃れた百姓・地下人を還住させ(宝翰類聚天正18年8月20日長吉判物),寺林光林寺・根子村浄玄寺などに寺領を寄進した(光林寺文書・光徳寺文書)。これを「上【かみ】衆一番下【くだ】り」と称する(石鳥谷町史)。「弾正下り」と称する旧道も知られる(二郡見聞私記/南部叢書9)。天正18年10月浅野の主力が引きあげると,稗貫・和貫・葛西・大崎の旧臣,そして九戸政実らは一斉に蜂起して秀吉に叛旗を翻した。稗貫氏も一揆に与して旧領の回復を図った。天正19年8月,関白豊臣秀次を総大将とする奥州再仕置の大軍が襲来,当郡を経て,さらに北方の九戸方面に向かった。当郡には浅野長吉麾下の奉行2名が駐留して,一揆首謀者の誅罰,城館の破却などにあたった(光林寺文書)。これを「上衆二番下り」と称する。同時に稗貫・和賀・斯波の3郡は南部信直の領地とする決定が上方からもたらされた。天正19年9月南部信直は稗貫・和賀両郡の地8,000石を北主馬尉秀愛に,1,500石を江刺兵庫頭重恒に給して,それぞれ鳥谷ケ崎城(北上川西部),新堀城(東部)の守りとした(宝翰類聚天正19年9月25日南部利直知行判物)。稗貫・和賀の旧領回復の望みは完全に断たれ,両氏の滅亡は決定的となった。なお,和賀・稗貫を中心として,南部・葛西・大崎などの諸氏をも巻き込んだ室町中期永享7年の大動乱の模様を描いた「稗貫状」は「聞老遺事」のなかに採り入れられて「南部叢書」2として上梓されている。「稗貫状」とはあるが作者は当時の人ではなく,状中に活躍する「稗貫執権八重畑豊前守」の末孫,八重畑独歩斎である。文禄3年以前には成立していたとされる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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