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閉伊郡


当郡にあった北畠・閉伊などの諸氏は,豊臣秀吉の奥州仕置のためその領地を失い,居城を追放されて,南部氏領(盛岡藩領)とされるようになった。また,旧来からの遠野地方の領主阿曽沼氏は横田城を本城とし,大槌城に大槌氏,増沢城に鱒沢氏や一族などを各所に配していたが,天正18年小田原に参陣せず,豊臣秀吉によって南部氏の支配下に属すものとされた(上閉伊郡志)。天正20年の「諸城破却書上」には横田城・大槌城・増沢城のほか郡内に板沢城・千徳城・田鎖城があったことが知られ,このうち横田城は存置されたという(県史5)。南部氏配下とされてからもなお遠野・釜石・大槌地方に1万石以上を領有した阿曽沼氏は,慶長6年阿曽沼広長が最上出陣中に鱒沢左馬助や家老の上野右近・平清水駿河が南部利直の支援を受けて企てた反乱のため,横田城が占拠され,広長は近習わずか3,4人とともに気仙郡世田米修理のもとに亡命した(同前)。郡内では宮守氏・東禅寺氏や一族の附馬牛氏が広長を支持して争うが逆に滅ぼされ,阿曽沼氏はついに旧地を復することはできなかった(同前)。この阿曽沼氏の争乱において滅亡を免れた大槌氏は,東部海岸のうち釜石浦から山田浦間の領有が認められて知行3,000石と称されたという(同前)。大槌氏は海産物による収入で財政が豊かであったが,海運貿易に関して藩の忌諱に触れて慶長17年頃までにその支配権を失って寛永年間頃には滅亡した。その後の大槌城には城代が置かれるが,万治元年には大槌城も廃された(同前)。遠野地方は阿曽沼氏の争乱ののち,同氏の家臣であった上野右近広則が2,000石,平清水駿河景頼が1,000石で南部氏にとりたてられて横田城代とされ,鱒沢忠右衛門広充は2,000石を給され,3氏によって遠野地方の統治が行われた(同前)。しかし,慶長19年の大坂の陣後鱒沢氏・平清水氏が滅び,元和7年頃上野右近が没してその孫久兵衛が上野氏を継ぐと,2,000石は収められて新たに岩手郡に500石を給されるようになり,横田城代には毛馬内三左衛門・槻館左兵衛が任じられた(同前)。仙台藩領の気仙郡と境を接する当郡遠野地方は寛永4年その軍事上の重要性などから城代を廃して,八戸の根城(現青森県)に在った一族の有力者八戸直義(直栄)をその家臣とともに横田城に移し,以後廃藩に至るまで同家(遠野南部氏と称される)が同城に在って遠野地方の支配を行った(県史5)。当初遠野南部氏の所領は遠野諸郷のほか紫波【しわ】郡・岩手郡・九戸郡にも分在したが,寛文5年八戸藩領の成立に際して九戸郡の所領が同藩に編入されて,その減封分は遠野諸郷の検地増高が当てられたという(同前)。遠野南部氏は独立した藩を形成することはなかったが,利直により所領内犯罪人の処罰を委任されるなどの特権が与えられており,所領内統治の実際は藩に準ずるものであった(同前)。当郡は全域盛岡藩領で,郡内の村々は野田・宮古・大槌・遠野・上田・大迫【おおはさま】の各通に属した。遠野通の代官所が横田城に置かれたほか,宮古村に宮古通の,大槌村に大槌通の代官所が各々設置されていた(同前)。村数・石高は,「正保郷村帳」94か村・1万941石余(田5,273石余・畑5,668石余),「貞享高辻帳」91か村・1万3,666石余,「天保郷帳」94か村・2万6,725石余,「安政高辻帳」91か村・2万1,772石余,「旧高旧領」138か村・2万8,559石余。「邦内郷村志」によると村数138,人数6万8,068(男3万5,690・女3万2,378),馬数は遠野通7,353,宮古通4,786,大槌通2,589。郡内には藩営の牧場はなかったが,馬が多く飼育されており,特に遠野地方は曲り家の存在に知られるように民間馬が多かった。「本枝村付並位付」では村数140。武士や宗教関係などを除く農民・町民の人口は,天和3年5万7,162(男3万538・女2万6,624),元禄5年5万9,073(男3万1,593・女2万7,480),正徳2年6万9,917(男3万7,178・女3万2,739),宝暦2年6万4,347(男3万4,262・女3万85),寛政2年6万4,004(男3万3,570・女3万434),文化13年6万4,832(男3万4,067・女3万765),天保11年6万4,785(男3万4,048・女3万737)であった(県史5)。仙台藩領の気仙郡との境にある小友村の赤坂山金山(小友金山)は,はやくからその産金が知られ,毛馬内三左衛門が横田城代であった頃には仙台藩領側と赤坂山の峰を2つに割って,各々相手側には侵入しないことが協定されていたが,寛永5年仙台藩領側が遠野側に入って採掘したため紛争となり,同19年に至って盛岡藩と仙台藩の間で改めて境界が定められて境塚も築かれ始めた(遠野市史2)。当郡の鵜住居【うのすまい】川流域から餅鉄と称する鉄鉱石を産しており,それが良質の製鉄原料となって南部刀が作られていた(県史5)。また,天保11年に開業した沼袋村室場鉄山は砂鉄を原料に製鉄量年間2万5,000貫であった(同前)。江戸末期にはロシアなどの異国船に対する領内沿岸防備のため多量の製鉄が必要とされるようになり,安政4年藩士大島高任が洋式高炉による製鉄に成功した。同年開業した大橋村大橋鉄山は鉄鉱石を原料とする洋式高炉で,年間18万貫を産し,同5年開業の橋野村橋野鉄山も鉄鉱石を原料とする洋式高炉で年間25万貫を産するようになった(同前)。郡内にはほかに鱒沢村長瀬金山や川内村達曽部金山,袰綿村本堂銅山など多くの鉱山があった(同前)。当郡東部の三陸海岸の漁場は紀州地方の漁民によって開発されたといわれ,そのため沿岸の村々に広く熊野信仰が分布しているという(釜石市誌6)。水稲生産に不利な海岸部では海産物の商品化によって,特に寛文11年東廻り航路が開かれて江戸への海運の便が図られてからは漁業が盛んとなった(同前)。海産物には拾分一役が課され,元禄15年盛岡藩は釜石と宮古に海辺大奉行を置いている(同前)。また,郡内の河川では鮭漁が行われて重要な産業の1つとなっていた。寛文5年の当郡海川からの運上金は750両,うち小本川の鮭税は63両(このうち10両現金,残りは塩引1両につき52本で2,656本を上納)であった(九戸地方史下)。江戸中期からは長崎俵物の生産が中心となり,天保3年宮古通代官所管下で江戸へ送られた海産物は,鮪片身140枚,干鰯91万8,000枚,魚粕3,229石,魚油16石余など(同前)。明和元年の釜石における拾分一役は,鮭塩引1本につき12文半,鮭筋子1腹につき2文,鱒1本につき5文余,棒鱈1本につき5文余,干鰯7斗入50文,布苔5石入300文などと定められていた(釜石市誌6)。拾分一役による収入は,釜石役所では寛政8年875両程,同10年2,993両程,享和3年1,462両程,宮古役所では寛政8年246両程,同10年284両程,享和3年250両程であった(同前)。弘化年間宮古沖に鰯の大群が来たが,藩では漁獲以前にその税の徴収を告げ,税率のあまりの高さに漁民は大群の通過を見守るだけであったという(九戸地方史上)。海岸部はまた砂鉄地帯でもあったため鉄製塩釜の入手に便があり,製塩もよく行われ天和3年には大槌通58,宮古通24,野田通41の塩釜があった(同前下)。「奥々風土記」(南部叢書1)は当郡の産物として魚粕・絹糸・真綿・串貝・煎海鼠・塩・針かね・魚油・慰斗・麻糸・藍・絹・紬・紅花・紙などを記し,東部の海産物には鯨・鮪・鰹魚・鯛・鰺・鰯・鮭・鱒・鯣・海蛸子・烏賊・保夜・蠣・鮑など多数の魚介類をあげ,宮古川・小本川は領内鮭の名産地3か所のうちに含まれるという。郡内には,盛岡城下から遠野を経て釜石に至る釜石街道,遠野から界木峠を越え小鎚村に至る大槌街道,大槌通・宮古通・野田通の海岸沿いに南北に走る浜街道などが通っていた(釜石市誌6)。また,江戸中期に栗林村林宗寺住職であった鞭牛によって釜石―宮古―川井間などの道が改修されている(九戸地方史下)。海運の発達にともない鍬ケ崎湊は寛政元年には外洋船の必ず寄港する「盛岡藩領第一の繁華の地」といわれて繁栄した(同前)。幕末期になると盛岡藩は行き詰まった藩財政再建のため鉄産業や漁業に多大な課税を実施するようになり,これらの産業が発達していた当郡東部地域の野田通・宮古通・大槌通の三閉伊通ではそれらの産業の従事者以外の農民にも負担が増大して生活が圧迫された。弘化4年には前年の御用金の完納をみないうち再度藩領内に6万両の御用金が課され,うち野田通に1,430両,宮古通に3,527両,大槌通に3,480両が課されており,藩内最高の税率であったという(釜石市誌6)。同年九戸郡野田村に発生した一揆は南下しつつ三閉伊通の多くの村々がそれと合流し,遠野に至って早瀬川原に参集した人数は1万2,000余といわれる三閉伊通大一揆となった(九戸地方史下)。一揆は遠野(横田)城の遠野南部氏へ強訴に及び,御用金免除など25か条を要求し,同城に派遣された家老などを含む藩政当局によって12か条が許可され,他は追って盛岡で吟味することでようやく鎮静化した(同前)。しかし,藩は一揆解散後その公約を破棄したため領民の藩政改革を求める動きが高まり,三閉伊通大一揆が嘉永6年に再発した。この一揆は全国でも最大級のものとなり,栗林村の三浦命助などを指導者として組織的に行動し,前回のように九戸郡野田村から海岸沿いに南下しつつ人数を増し,釜石に到着した時には1万数千人に達したといわれ,さらに南下して仙台藩領に入って仙台藩に訴えた(同前)。この時仙台藩で越境して来た盛岡藩領民に食事を与えているが,その人数は8,565人であった(同前)。のち命助ら代表45人を残して一揆参加者は帰国し,代表者らは政治改革とともに藩主更迭か,仙台藩か幕府への支配替えを要求した(同前)。結局この要求は棚上げされて,別に49か条を要求し,新興産業に対する専売権をすべて破棄することなど多くの条項を認めさせ,首謀者と目された命助はのち盛岡藩によって捕らえられ,文久4年獄死した(同前)。慶長16年・延宝5年・寛政5年・安政3年など沿岸の浦々は度々津浪による被害を受け,寺社は高所に築かれたが,民家は津浪来襲後しばらくするとまた海辺に築かれて再三の被害に遭った(同前)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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