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八幡町(近世)


 江戸期~昭和42年の町名。大崎八幡町(封内風土記)・遠八幡町(残月台本荒萩)ともいう。江戸期は仙台城下の町名。明治11年宮城県仙台区に所属。同22年からは仙台市の町名。仙台城下の西端を占める地区で町名は大崎八幡宮の門前であったことによる。大崎八幡宮は奥州探題大崎氏が遠田【とおだ】郡八幡村(現田尻町)にまつったものを,伊達氏が入部すると岩出山に移し,さらに慶長7年に仙台に動座,同9~12年に社殿の造営が行われた。これに米沢以来の成島八幡を合祀し,その別当寺であった真言宗鶏沢山宝珠院竜宝寺に管轄させた。同寺は京都醍醐寺三宝院の末寺,伊達家の祈祷寺として篤い尊崇を受け,鎌倉期以来の由緒を有し,塔頭6か院があった。大崎八幡社の社殿は石之間【あいのま】を有する権現造の古式を伝え,京都北野神社と日光東照宮の両様式の中間に位置する豪華な桃山式建築。町の成立年代も慶長年間と考えられる。正保絵図にもすでに街路は割り出され,禰宜町と記されている。以後の絵図では,竜宝寺門前とも八幡門前町とも記され,その範囲は東は石切町から,西は滝前丁までにわたっていた。「残月台本荒萩」によれば町家98で,辻番所3か所,検断肝煎2人が置かれた。また「封内風土記」によれば宅地90,市人1,341人。仙台城下から西方の愛子【あやし】・作並を経て最上(山形)に至る街道沿いで仙台城下でも有数の町場であった。仙台出離れの地として茶屋も置かれていた。なお八幡町のみならず寺社門前町は,町屋ではあったが町奉行支配の地ではなく,当該寺社の支配が認められていた。八幡町の場合は別当寺である竜宝寺の支配に属した。門前町の特権としては,酒類・塩・タバコ以外の店売について諸役を免除され,その免除された部分は寺社に対する貢納や奉仕に宛てられたものと考えられる。当町と北方の坊主町方面とは八幡町三丁目横丁・中ノ横丁・石屋横丁の3本の横町によって結ばれていた。八幡町三丁目横丁は穴戸横丁とも別称。石屋横丁は仙台城築城に携わった石工の居住地であったことに由来。中ノ横丁は江戸横丁・安達屋横丁と別称。また南方の中島丁とは米穀商樋口屋に由来する樋口屋横丁で結ばれていた。明治になっても門前町や茶屋町としての繁栄が続き,特に1月14日夜の「どんと祭」は仙台を代表する祭りとして有名で,市内各所から裸詣を集めてにぎわいを呈し,このにぎわいは昭和初年の国鉄仙山線開通まで続いた。明治10年前後北三番丁と十二軒丁を結ぶ新道が,へくり沢に土橋を架けて開削され,市の中心部と直通するようになった。さらに大正12年5月には仙台市の都市計画地域に指定され,都市計画道路の建設が計画された。この中に八幡町案内線がとり上げられ,道路の改修と拡張が行われることになった。さらにこれと並行して,仙台市営の路面電車の建設も計画され,その中に八幡町線ものせられた。工事は昭和16年に完成し,仙台市電が大崎八幡の参道口まで通じることになった。この結果,北四番丁と八幡町を直結する大通(現国道48号)が,へくり沢を埋め立ててつくり出された。これらの巨大工事によって町並みは大きく変わり,第2次大戦後の高度成長期にはマンションをはじめとする近代建築が姿を見せて,町の景観は急変した。国道48号の改良工事ともあいまって現在では山形方面との交通の要地としての発展を見せている。昭和42年現行の八幡1~4丁目となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7257254