広淵村(近世)

江戸期~明治22年の村名。桃生郡深谷代官区二十六村の中心で代官所が置かれ,明治期は21年まで郡役所が置かれていた。寛永5年,片倉小十郎重長が広淵谷地・ぼためき谷地などを拝領,同地は家臣団が開拓,片倉谷地・白石谷地などと呼ばれた。同13年,後続の家臣団が入植していまの町【まち】に足軽町をつくり,江戸期を通じて足軽講という特別な契約講を結んでいた。新田【しんでん】・柏木・松原・鬼越・雁北【がんぼく】にある用水堤は片倉家中の築造という。同17年頃歌舞伎「白石噺」で有名な,仇討ちの敵役志賀団七の一族が村内に移住(河南町誌)。寛文5年,広淵大堤が完成し,玉造川(江合川・狐川)の旧流路は細流となった。付近の町下【まちした】に須江村糠塚から来た移住者が糠塚町を形成,また7年に伊東采女家中も入植し,広淵町は伊東肥前預り町といわれた。同年の百姓は119軒,うち糠塚町に33軒あったと伝える(安永風土記)。同11年の村高は827町余(宮城県史)。明和の頃戸数110。寛永17年以来と伝える宿場があり,谷地・夷田筒場・泉沢館・女形などの小名もあった。蔵場もあった。神社は6,仏宇2,寺に耕徳寺・広淵寺【こうえんじ】があった。広淵大堤は広淵沼ともいわれ,縦1,270間・横1,200間・周囲6,193間の規模(封内風土記)。安永5年の村高は3,483石余で寛文11年の4倍増となった。うち田代3,305石・畑代177石余。蔵入地1,914石余・給所1,568石余(安永風土記)。給所には片倉氏知行分が1,002石余あった(片倉小十郎知行御割目録/河南町誌)。人頭120で村の居住29,町に91。家数219軒(うち借屋99)。広淵町と称される宿場は6丁54間で,うち本町【もとまち】が6丁23間,糠塚町が31間であった。人口は男432・女363の計795人。代数ある百姓が10あり,10代相続1・9代2・8代1・6代3・5代3。馬131匹。町裏に藩の雑穀倉1があり,4棟の倉庫はいずれも寛文7年の建設。明治元年まで残っていた(河南町誌)。神社は7社で,鹿嶋三社が村鎮守。仏閣に阿弥陀堂・太子堂があった。阿弥陀堂は3月15日,9月15日が祭礼日で広淵の足軽4名が警固をつとめた。寺は明和の頃と変わらず,修験は3院。浅川となった定川に定川橋・〆切橋などが架橋されていた。広淵大堤の溜高は1万8,097石余で,当村のほか,前谷地・和淵・須江・鹿又・赤井・北の6か村と牡鹿郡蛇田村の入合用水。広淵分の溜め高は3,097石余(安永風土記)。天保5年の村高は4,013石余(天保郷帳)。明治元年高崎藩取締地,以後,桃生県・石巻県・登米【とめ】県・仙台県を経て同5年宮城県に所属。同3年の村高4,040石余(陸前国牡鹿郡桃生郡本吉郡郷村高帳控/石巻市図書館蔵)。同5年の田積341町余(河南町誌)。同15年,自由民権運動が起こり,郡長角張直之助が社長となって共興社を設立。社員は500人。しかし翌年には事業団体に変質していった(宮城県農民運動史)。同14年,広淵村北村連合戸長役場を置き,同17年赤井村塩入村を加えた連合戸長役場となる。同21年大火のため郡役所を焼失,以後郡政の中心は現河北町飯野川に移る。同22年桃生郡深谷村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7257358 |