明永野村(近世)

江戸期~明治9年の村名出羽国平鹿【ひらか】郡のうち秋田藩領横手町北方1里の山麓部に位置する山麓の大鳥井山は,平安期の仙北俘囚主清原氏の一族大鳥山頼遠の拠点として知られ,付近には縄文時代の遺物や須恵器の出土地点が密度濃く分布中央部を羽州街道が縦断また平安期の明永長者の伝説で知られる熊野神社がある(三熊野社別華厳院古記/秋田叢書)明永の地名は当村内の明永沢・明永沼などのほかに,西方4kmまでの平野部にも上八丁村や下八丁村の枝郷明永村として分布平安期には当地一帯が明永郷と呼ばれ,開発の拠点をなしていたという説さえある(石母田正:辺境の長者)近世秋田藩政下では,明永野村は当初は関根村の枝郷扱い延宝7年横手給人菅生庄之助の忠進開による開村ともいい,横手給人130人余が手作地として畑を起立していたともいう(享保郡邑記)宝永~享保年間の郡村改めの際,黒印村寄郷に昇格するが,北接の見入野新田【みいりのしんでん】村との村境は横手川河畔の双方の開発が入り組み錯綜して,村高の確定が困難だったとも伝えられる「享保黒印高帳」で村高185石余・当高169石余(うち本田並158・新田11)と認定「寛政村附帳」「秋田風土記」に村名は見えない戸数も「享保郡邑記」で関根村枝郷の項に4軒とあり,「雪の出羽路」で横手明永野村23軒(肝煎六左衛門),御林守七右衛門居住と記載「吉沢家文書」にも横手明永野村と見える村鎮守は熊野社「天保郷帳」は169石余明治5年「赤水沢矢矧沢役山書上帳」では,大松川村の赤水沢・矢矧沢【やはぎさわ】山を入会原野とし,家43軒・
【なた】5丁に限り役銀8匁余を納入の上で用益とある同9年睦成【むつなり】村の一部となり,その大字を編成したとみられるが未詳同22年以降は大字睦成の小字明永として地名をとどめる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7261179 |