100辞書・辞典一括検索

JLogos

25

土生田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年山形藩領,寛文8年幕府領,安政3年からは蝦夷地松前藩領(東根【ひがしね】陣屋支配)。なお最上義光分限帳(山形市史史料編1)によれば近世初頭には最上氏家臣飯田伊賀守の所領であった。村高は,寛永13年領地目録(家世実紀)では1,314石余,土生田村御用留帳によれば延宝3年の検地では2,075石余となる(うち田1,724石余・畑349石余)。「天保郷帳」「旧高旧領」および天保13年の村山石高帳ではともに2,076石余。願正御坊縁起(県史15下)には「山形義光天童頼久ト合戦(天正5年)ニ打勝,下郡新庄マテ心ノ儘ニシタカヘ,酒田船ヲ通路セシメント巧計シ……大石田ト中野・船町ヲ舟往還ノタメ村立テシ,同時ニ中仙道ノ街道ニ橡生田町ヲ割出ス〈今ハ土生田村ト書ク〉」とあり,近世初頭には交通上の要衝となったことがわかる。土生田村御用留帳によれば,天明3年の家数は百姓82・名子73・借地2・山伏2・寺2・庵1で計162軒,人数777(うち男419・女358),馬43,文化8年は家数158軒・人数740。溜池3か所,御林8か所があった。羽州街道沿いの街村として宿駅が設けられ,宿駅業務は1か月のうち土生田村20日,本飯田村10日あり,南に隣接する同じ街村の本飯田【もといいだ】村と交互に勤めた補助駅的な宿場であった。北端に追分があり,東は尾花沢【おばなざわ】方面,西は最上川沿いにいわゆる「へぐり道」を経て大石田方面へ行く道とに分岐する。宝暦年間の飢饉の際,農民救済のため幕府の命に抗して処罰をうけた尾花沢代官辻六郎左衛門を祀ったと伝えられる辻大明神の石碑がある。最上川沿いの字赤石は最上川三難所碁点【ごてん】・三ケ瀬【みかのせ】・隼【はやぶさ】を船が通る際の曳船人足の村の1つで,元和年間,水戸の矢作り仁左衛門なる者が廻米下し船の監視のため配置されたのが起源とされている(袖崎の郷土誌)。慶応2年の「横尾家日記」4月11日条には,当村と本飯田村の組頭四郎右衛門と問屋喜六が本飯田宿および当宿の人馬賃銭の割増を申し出,それまで4割増であったのを7割増にするよう願い出ているが,結局6割増に抑えられた旨の記事が見える(慶応2年村山騒動/生活史料13)。村鎮守は大宮神社で,もと字宮所【みやのところ】にあったが明治35年字内楯に移された。最上義光家臣飯田播磨守の開基と伝えられる山形竜門寺末曹洞宗渓永寺は天保10年類焼によって諸堂を焼失し,その後の再建。山形専称寺末浄土真宗無量寺は元禄年間の創建と伝えられ,開基の僧祐玄は元禄17年入寂。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同11年の一覧全図では,反別318町7反余,戸数207・人口1,215,土生田学校がある。明治11年北村山郡に属し,同22年袖崎【そでさき】村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7263907