本合海町村(近世)

江戸期~明治22年の村名。本合海村とも称した。最上郡のうち。はじめ最上氏領,元和8年からは新庄藩領。南本町郷に属す。村高は「新田本新庄領村鑑」では合海町本合海村として元和8年776石余・元禄13年963石余,「天保郷帳」では合海町本合海村と見え1,181石余,「旧高旧領」では1,062石余。慶長19年3月28日付,清水光氏宛行状(新庄市,斎藤文書/戸沢氏以前史料集)では地内の「大脇之内畑掘山」が斎藤与左衛門に宛行われている。当村は古くからの最上川の河岸集落で,新庄盆地と最上川を結ぶ交通の要衝であった。江戸期には清水(現大蔵村)の枝河岸とされ,小物成のうち糠・藁・萱・柴・薪などが3分の2,買綿が半分免除になっている(吉村本新庄領村鑑)。当地には蔵宿が置かれて早坂・加藤両家が勤め,斎藤・加藤・樋渡家などの舟持や荷問屋があった。また当村の庄屋を勤めた斎藤与左衛門家は戦国期には清水氏の蔵宿であったという。また夏には出羽三山の行者たちの乗船場としてにぎわったという。元禄2年奥の細道を訪ねた松尾芭蕉が新庄から庄内へ下ったときの乗船場も当地であった(曽良随行日記)。享保6年当村の百姓たちが庄屋市右衛門に私欲不正の所業があるとして郷蔵に集合し,庄屋から印鑑を奪って捺印し越訴に及んだ。ところが帳簿を調べた結果不正はなく,庄屋は赦され百姓たちは死罪入墨追放などに処せられたという(増訂最上郡史)。枝郷畑村の南には材木沼・笛吹沼がある。「吉村本新庄領村鑑」によれば,当村の反別は明和3年・文化元年ともに72町余うち田方53町余,年貢高は明和3年945俵余うち田方849俵余,文化元年947俵余うち田方856俵余,家数・人数は寛政6年60軒・416,文化9年66軒・410,文化12年の馬50,枝郷に畑村がある。寺院は,曹洞宗八向山積雲寺があり,同寺の地蔵堂には最上川から引き揚げられたという地蔵尊が祀られている。この場所を今でも地蔵巻と呼んでいる。神社は,最上川を上下する船人の守り神である矢向大明神,七所明神・八幡宮があり,ほかに当山派修験栄光院がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。同年福宮村を合併。同11年の一覧全図では,反別は215町2反余,戸数・人口は129・983,本合海学校がある。明治11年最上郡に属し,同22年八向村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7265024 |