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米沢藩(近世)


江戸期の藩名外様・中藩居城は米沢30万石,のち15万石,初代藩主上杉景勝,戊辰の役の藩主は上杉茂憲慶長6年の関ケ原の戦の処分により,会津(現福島県会津若松市)120万石から転封された上杉景勝(上杉氏2代)を初代藩主として,以後明治4年の廃藩まで14代続くその領地は,はじめ置賜【おきたま】郡・伊達郡・信夫郡にわたる30万石であったその後寛文4年に4代藩主綱憲の急死により領地は半分に削封され,置賜郡のうち,上長井・下長井・北条郷のみとなり,ほかはすべて幕府領となった米沢藩の石高は,先に示した表高に対し,実高ははじめ51万7,000石余,削封後は28万石余といわれている会津時代以後の度重なる減封で,家臣団および藩財政に与えた影響は大きかった米沢藩は領内の統制のために,四方の藩境の要地に支城を配置し,のちこれを「役屋」と称した(元禄5年以後)小国・高畠(15万石以後は糠ノ目)・荒砥・鮎貝・中山がそれで,城代(のち役屋将)を置き,30~40人の足軽を住まわせ,藩境の警備と旅人・貨物の取締りに当たり,この形態は幕末まで維持されたまた役屋を助けて取締りを強化するために口留番所を15か所に設けているそれは,板谷・綱木・花沢・糠野目・掛入石中山・小滝・萩野中山・大瀬・栃窪・玉川・蓬生戸・折戸・黒鴨・筑茂・爼柳で,そこには番所役人として扶持方1~2人を配置しているその後藩では新たに藪口番所として23か所を設置し,先の番所を本口番所と呼んでいる藪口番所は多く幕府領である屋代郷との境界の要地に設けられているので,寛文4年以後に設定されたものであろう(米府鹿子)また大身の武士による陪臣集落が農村部に作られたのも米沢藩の特色で,色部氏の窪田村,毛利氏の川井,下条氏の勧進代新地,中条氏の山口新地,千坂氏の簗沢などがある近世初頭には,これまで水利の便の悪かった置賜盆地の中央地帯や西部の山麓地帯の開発が盛んに行われたこれに当たったのは土豪武士層で,上杉氏家臣の他屋経営によるものも多い開発した土地は,代官や家臣に開知行地として与えられた同時に用水堰の開削も盛んに行われ,下長井の諏訪堰,大塚堰,長堀堰は,それぞれ慶長年間に完成し,寛永年間には,松川の水をあげて開かれた4か村堰によって,松川の山麓一帯の開発が進んだ鬼面川の扇央地帯の開発は堀金堰の利用によるものである新田開発は近世初頭にもっとも盛んであったが,中期以後では,寛政年間に藩営事業として行われた勘定頭黒井忠寄の指導による黒井堰が有名で,松川の上流に取水し,10里余に及ぶこの堰の灌域は,北条郷30か村余を潤した寛文4年の削封により,藩領は屋代郷を除く置賜盆地の全域に限られたが,その村数は約250か村で,これを「上杉領村目録」(天保年間刊)によって郡別にみると,上長井45,北条郷54,中郡17,下長井西通25,下長井東通26,小国郷・外中津川69,内中津川14となっている米沢藩の年貢は半石半永制を初期から採用し,村の年貢は,直接藩に納入する蔵入分と,知行家臣に渡す年貢分に分けられるが,一つの村に数人の給人が給地をもつ相給の形態が多い藩からみた場合の蔵入分と給人分の割合は,明和8年の「御領知高並御続道一円御元払帳」によれば,約9万2,000石と約8万2,000石となっている藩財政にとって領内の特産物である青苧・漆・蝋の比重も大きく,青苧の場合には一定額(530駄)を固定値段で買上げ,漆・蝋についても,貢租として納入させた残分も,藩が一手に買上げ,専売する形態をとったまた元禄3年に,製蝋のための藩営の蝋筒を長町・小出村・小国村・玉庭村・小松村・宮内村に設け(元禄6年以後,長町・小出村・小国村の3か所に限定した),蝋製造を独占した青苧や漆木が多いのは,下長井・北条郷地帯であったこの特産物の専売は,米についても,買米制として実施している(藩制成立史の綜合研究,米沢藩)米沢藩の人口は,元禄6年,藩士3万1,145人・町人1万2,078人・農民8万7,543人,出家その他が1,423人で合計13万2,189人となっているが,その後18世紀後半には人口減少が著しく,特に明和10年には,総人口9万9,400人余,寛政3年も9万9,100人余に減じている元禄年間の人口にもどるのは幕末期の安政年間以後である人口減少の著しいのは大飢饉の影響が大きく,藩政にとっては,財政の窮乏と農村の荒廃の激しい時期に合致している10代藩主上杉治憲(鷹山)による明和・安永の改革および寛政の改革は,このような状況に対する藩政の建て直し策の実行であった明和8年の藩の財政収支をみると,米収入が,4万石余に対して,支出は4万1,000石余,金方収入3万522両余に対して,支出は3万667両で,いずれも不足をだしている赤字はこのほか自他領商人からの借銀に対する年賦返済額が別にあり,これを合わせるとこの年の全不足額は,約3万両に達したこれに対する対策として藩は,産業の奨励を行い,桑・楮・漆の各百万本樹立計画を実施し,織物業の技術の導入を図ったはじめは米沢寺町と長井小出村に藩営の縮役場を設け,やがて特に米沢では絹織物の家中工業として発展し,農村では養蚕が普及し,生糸の家内工業が盛んとなった米沢の機台数は,文久年間に840台,職工は約1,000人といわれ,そのほとんどは下級家臣およびその婦女子であった城下町の織物問屋は,嘉永7年に「仕入問屋三十六軒組」の仲間を作っている(国産密書二)戊辰の役に際し,米沢藩は陸奥仙台藩とともに奥羽越列藩同盟の盟主として新政府軍と戦い,とくに慶応4年5~6月,北越戦争で新政府軍と激戦を交えたが,8月に降伏した戊辰の役の米沢藩に対する処分は,同盟の総督故色部長門を首謀者として届け出ること,また下長井など80か村余,高4万石(のち北条郷・屋代郷と替村を許される)を収公された明治2年6月18日,支藩で上杉勝道(駿河守)の管轄する米沢新田藩の所領,村高1万石余を併合した明治4年7月廃藩となり,米沢藩領は米沢県・置賜県を経て山形県に編入された




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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