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蜷河荘(中世)


鎌倉期から見える荘名稲河・伊奈川とも書く河沼郡のうち初見は建長5年10月21日の近衛家所領目録で,「同国(陸奥国)蜷河荘 冷泉宮領内」と見え,当荘は,11世紀末冷泉宮(三条天皇皇女依子内親王)の荘園として成立し,長治2年から保安2年の間関白職をつとめた藤原忠実の手に移って摂関家領となり,鎌倉期には近衛家領の荘園として伝えられており請所であったことがわかる建武3年4月25日の沙弥某預ケ状(遠藤白川文書/県史7)によると,沙弥某が足利尊氏の命をうけて「会津稲河庄内矢目村」を蒲田兼光に,同年7月28日の沙弥某預ケ状(合編白河石川文書/会津若松史8)では,「会津蜷河庄野沢村半分」を小平光俊に預けているまた,貞和3年8月日の真壁政代薄国着到状(真壁文書/県史7)では,「会津蜷河庄勝方村地頭職摩訶部(真壁)小太郎政本代薄彦五郎国」が北朝方に属して伊達郡藤田城攻めに加わっているから,南北朝期には当荘は北朝(室町幕府)の勢力下にあったことがわかる文和3年11月9日の中務大輔施行状(伊勢結城文書/県史7)では,吉良満家と推定される中務大輔が,足利尊氏の命を受けて,「会津蜷河庄半分」を結城朝常に与えている永享6年6月5日の蘆名聖喜譲状(首藤石川文書/県史7)によると,蘆名聖喜はその子盛久に会津郡守護職などを譲っているが,その中に河沼郡と蜷河荘も含まれており,室町期には当荘が黒川(会津若松)の蘆名氏の一円支配下に入っていることがわかる天文5年6月24日の蘆名盛舜証状(新編会津所収文書/県史7)では蘆名盛舜が「伊奈川之庄棟役」の来年分を黒川の諏訪社に寄進しているから,戦国期における蘆名氏の当荘に対する一円支配が行われたことは確実である永禄7年5月17日在銘の野沢村(現西会津町)如法寺鉄製釣燈籠銘(県史7)に,「会津稲河之荘如法寺」とあるなお文禄3年の蒲生高目録には「稲川郡」と見え,寛文年間に河沼郡に併合された(家世実紀)会津地方中部,現在の河沼郡会津坂下【あいづばんげ】町・柳津【やないづ】町・耶麻郡西会津町および高郷村の南半(阿賀川以南)の地一帯に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7265810