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湯本(中世)


 南北朝期から見える地名。菊田荘のうち。建武3年4月10日の石川貞光軍忠状に「右今年〈建武三〉四月六日,東海道湯本広橋修理亮構城槨,楯籠之間」と見え,南朝方の広橋修理亮のよる湯本城を北朝方の石河入道光念とその一族光春らが攻めている(色川本岩城文書抄出/県史7)。建武4年正月16日の伊賀盛光代麻続盛清軍忠状に「湯本館」と見え,前日の正月15日盛清は北朝方の石川松河四郎太郎の手に属して南朝方の小山駿河権守のよる菊田荘滝尻城を攻め,その日のうちに湯本館を攻めている。その途中西郷長間子で当地に本拠を置くとみられる湯本少輔房を生捕りにした(飯野文書/県史7)。また同年正月16日の伊賀盛光代麻続盛清軍忠状にも「於三箱湯本城」と見える(同前)。同年8月26日の相馬胤平軍忠状によると,「同年四月六日菊田庄三箱湯本堀坂口石河凶徒等,引率多勢押寄之間」とあり(相馬文書/県史7),同年8月日の相馬朝胤軍忠状にも「馳参三箱湯本」と見える(大悲山文書/県史7)。この年3月8日霊山城を出た南朝の大将広橋経泰は,伊達川俣・信夫荒井の両城を攻め落とし,同月25日頃には小高城を攻め,さらに南下して湯本城によった。そこに北朝方の石川一族が来攻した。このとき相馬胤平は南朝方,相馬朝胤は北朝方の惣領親胤に属して戦っている。暦応2年3月1日の権少僧都隆賢檀那譲状に「藤三郎入道〈三箱・湯本〉」と見える(光明寺文書/県史7)。応永23年11年1日の足利持氏御判御教書に「喜久田知行分事 かまと ゆもと くろすの 山田 下山田」と見え,当地はかまと・くろすのなどとともに持氏䉼所として上遠野与次五郎に預けられている(奥州編年史料所収上遠野家文書/県史7)。これは上杉禅秀の乱のとき持氏方にくみした恩賞として預けられたものである。天文3年11日16日と推定される岩城重隆書状に「仍弾正事者,湯本当番候」とあり,弾正(志賀弾正か)を当地の当番として,木戸口には遠藤備後守に出陣するよう命じている(秋田藩家蔵岩城文書/県史7)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7270879