梶山村(中世)

室町期~戦国期に見える村名。常陸国鹿島郡のうち。鎌倉初期,鹿島氏一族中居四郎時幹の二子時家が館を構え梶山次郎と称したという(常陸大掾系図)。以来,室町期まで梶山氏は当地の地頭であった。応永3年8月の大宮司大中臣則重等連署申状に「当村地頭梶山掃部助幹継任雅意〈三十二町〉田畠令押領之条,謀計之企」と見え,梶山掃部助幹継が神宮神官和田祝大中臣家貞の所領32町歩を押領して訴えられている(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。しかし応永24年10月日の烟田幹胤軍忠状案には「大掾庶子,持寺・菅谷・瀬落・飯岡為御敵条,無是非者也,仍鹿嶋郡中致乱妨狼藉放火条,無其隠」とあり,梶山氏は上杉禅秀の乱に惣領鹿島氏に反して禅秀側に荷担して郡中において戦闘におよび,地頭職を没収され(烟田文書),梶山城も廃城になったという。代わって当地の領主は惣領鹿島氏となり,永禄2年12月17日の鹿島治時寄進状に「梶山之内和田之村薬師寺領之事」と見え,地内の光福寺へ田地1町9反・田銭(段銭)を寄進している(光福寺文書/県史料中世Ⅰ)。天正19年佐竹義宣の南下に伴い鹿島氏は滅亡,代わって領主は佐竹氏となる。文禄4年7月16日の中務大輔当知行目録写に「一,千百八石九斗四升 かち山・わた・二重作」と見える(佐竹義秀文書/家蔵文書)。慶長6年10月26日の東義久寄進状には「為鹿嶋殿焼香 梶山之内三十石之所付進候」と見える(根本寺文書/県史料中世Ⅱ)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7272626 |