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久慈東郡(中世)


平安末期~戦国期に見える常陸国の郡名古代の久慈郡は平安末期までに久慈東郡・久慈西郡・佐都東郡・佐都西郡に四分されるこのうち当郡は久慈川と山田川の合流点以北の久慈川東岸で,現在の金砂郷【かなさごう】町,大宮町北東部,山方町東部,水府【すいふ】村,里美村の大部分が含まれる弘安田文に「久慈東 三百八十丁二反半」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも同数値で記載されている(所三男氏所蔵文書)平安末期,当郡は佐竹氏の勢力下に置かれていたが,治承4年11月源頼朝は当郡内の金砂山城に拠った佐竹秀義を攻撃,その所領を没収し勲功のあった諸士に充行ったという(吾妻鏡)この時久慈東郡は二階堂行村に与えられたと推定される元亨3年9月23日の関東下知状には,宇留野大輔僧都宏瑜と伊賀義員後家尼覚法・同子息行元が常陸国久慈東郡加志村内の田1町・屋敷1所をめぐって争い,鎌倉幕府が裁許を下している(水府志料所収文書/県史料中世Ⅱ)これによれば,加志村は代々二階堂(伊賀)氏が知行し,鎌倉中期には二階堂行村の曽孫義賢が知行していたが,弘安8年の霜月騒動の際,義賢の後家とその子義員はその所領を没収され,当郡の大部分は得宗領となったと思われる乾元2年6月23日には当郡内の加志村は二階堂義員の子行元に返されたが(同前),郡内のその他の地については未詳一方,文治3年10月29日には奥郡に対して源頼朝家政所下文が発給され,「鹿嶋毎月御上日䉼籾」として当郡が36石1斗を負担することが定められている(吾妻鏡)南北朝期に入ると,当郡は再び佐竹氏の勢力下となり,康安2年正月7日の佐竹義篤譲状写には乙王丸分として「久慈東高倉内和久村」が見えるほか,「久慈東大里郷内一分方同名主方」が勝楽寺領,「久慈東大里郷地頭方大嶋村」が興国寺領となっている(大山義次文書/家蔵文書)一方,当郡内でも武家方・宮方両軍の合戦が行われ,建武3年8月22日の華房山合戦が知られる(飯野文書/福島県史)延徳2年4月佐竹義治の死後家督相続をめぐって義治の子義舜と山入義藤・氏義の対立が激化し,佐竹の乱が起こる佐竹氏は山入義藤・江戸通雅らの攻撃により太田城を追われ,当郡内の金砂山城に拠った「岩城系図」に「於常州金砂城,佐竹義舜籠城有大難,此時常隆ノ救ニヨリ運命ヲ被開候」と見え,岩城常隆の援助により佐竹義舜は再び勢力を回復し,明応2年冬頃佐竹氏と山入氏の和睦が成立した戦国期も佐竹領であった文禄3年の太閤検地を機に北部(里美村の大部分)は多賀郡に属し,その他は久慈郡となった




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7273299