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筑波郡


江戸期に入り,寛永年間の村数は145か村,正保年間は村数148・総高6万6,356石余(新編常陸)。以後は,「元禄郷帳」158・7万1,975石余,「天保郷帳」174・8万624石余,「旧高簿」168・8万600石余。所領構成は江戸期を通して幕府領・旗本知行地のほか土浦藩・谷田部藩や陸奥国仙台藩・武蔵国久喜藩などの諸藩領が混在していた。慶長8年遠江国久野から松下重綱が移封されて成立した小張藩が小張を居所とし,元和2年下野【しもつけ】国茂木【もてぎ】藩主細川興元が当郡と河内郡内に加増があり,のち谷田部を居所として谷田部藩となった。小張藩は重綱の下野国烏山への移封により一時廃藩となり,延宝7年石川乗政によって立藩され再び小張が居所地とされたが天和2年乗政が信濃国小諸へ移封となり廃藩。「寛文朱印留」による当郡内における各藩領と寺社領は,仙台藩4か村・3,802石余,下総佐倉藩25か村・5,238石余,同国関宿藩3か村・3,779石余,大名土井氏3か村・824石余,谷田部藩8か村・3,133石余,河内国狭山藩7か村・3,000石,信濃国長沼藩2か村・500石,真言宗知足院500石・普門寺30石,曹洞宗竜勝寺30石。幕末期は草高8万1,200石で,うち幕府領1万3,000余石,旗本領3万5,800余石,諸藩領3万9,900余石,寺社領2,000余石という。また当郡南部から下総国にかけての谷原と称される低湿地は,幕府代官伊奈忠治が寛永2年小張に陣屋を置いて開墾を始め,明暦3年まで3度の検地によって谷原領三万石と称する大規模な開発がなされ,忠治が寛永2年に築いた山田沼堰は,享保7年福岡村地先に移された。この福岡堰は谷原領三万石の生命で当郡南部の10か村の興廃を決するともいわれた。寛政5年幕府の代官として関東西部に臨んだ竹垣三右衛門は,上郷村に陣屋を置き,今鹿島・酒丸・安食・鬼ケ窪・真瀬・高須賀・牛縊・木ノ俣・中別府・下別府の11か村を支配した。また,同6年寛政の三博士の一人岡田寒泉(清助)が当郡を含む常陸国内7郡の幕府代官となった。天明の飢饉以後の荒廃した当地方の農村復興に風俗改革など撫育的政策をとった竹垣・岡田の両代官は,各々の支配下農民によって,竹垣は文化12年金村に,岡田は天保4年板橋村に没後碑が建てられている。古くから山岳信仰の対象とされた筑波山の発展は江戸中期以後顕著となり,幕府の筑波山神社に対する信仰も篤く,慶長7年知足院中禅寺に500石,元禄3年・同7年に各500石を加増して合計1,500石の神領を与えた。明治2年幕府領・旗本知行地は若森県となり,同4年7月の廃藩置県により,旧藩領を継承した前橋県・佐倉県・関宿県・茂木県が生まれ(仙台藩領は若森県となる),同年11月新治県に所属し,同8年茨城県に編入された。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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