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那珂東郡(中世)


平安末期~戦国期に見える常陸国の郡名古代の那珂郡は10世紀前半に吉田神社の神郡として吉田郡を分出,残った地域は平安末期までに那珂川を挟み那珂東郡・那珂西郡に二分された当郡は那珂川東岸,現在のひたちなか市南西端,水戸市北部,那珂町北西部,大宮町南西部,御前山村北部が含まれる弘安田文に中村・田谷東方・田谷西方・青柳・枝河・津田・今泉など総田数145町7反300歩および国井保26町5反240歩が見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文にも同数値で記載されている(所三男氏所蔵文書)平安末期,当郡は佐竹氏の勢力下に置かれていたが,国井保は頼信流源氏国井氏が支配していた治承4年11月源頼朝は金砂山城に拠った佐竹秀義を攻撃,その所領を没収し勲功のあった諸士に充行ったという(吾妻鏡)「大中臣氏略系図」の上総中三左衛門尉実久の項に「右大将家御代ニ常州那珂東西両郡此外数ケ所給之」と見え,那珂実久に与えられている(桐山文書)実久は源頼朝側近の有力御家人で頼朝死没直後正治元年正月上旬から承元3年まで京都守護職で,丹波・摂津・山城国の守護人でもあったという(同前)しかし,実久は北条氏と円滑な関係になく,同系図に「一 同(那珂)東郡〈今闕所〉」と見えるように,13世紀初頭当郡の地頭職は没収され,北条氏領となったと思われる一方,文治3年10月29日には奥郡に対して源頼朝家政所下文が発給され,「鹿嶋毎月御上日䉼籾」として当郡が13石9斗を負担することが定められている(吾妻鏡)また,建暦3年4月15日の官宣旨写によれば,吉田社の4月祭礼の供䉼籾として那珂東西両郡が5石ずつ納めることになっていたが,当郡公文慶宣法師が建仁元年以後,11か年の間対捍し,その量は55石に及んだという(吉田神社文書/県史料中世Ⅱ)当郡には郡地頭のほかに公文が存在したことが知られるが,慶宣はこの時公文職を「召上」げられた建保3年11月24日の行事源某・官使中原某連署吉田社供籾請取状写に「那珂東御供籾柒石五斗内,籾参石七斗代布参拾柒反〈籾一斗別〉,直弐百伍拾壱束〈准絹一疋直准布六反別〉,准布参拾参段准八丈絹壱疋直弐百玖拾捌束 納了」と見え,当郡が負担する吉田社供䉼籾が納められている(同前)南北朝初期と推定される年月日未詳の足利尊氏・同直義所領目録に「左馬頭殿」(直義)領として「常陸国那珂東〈維貞〉」と見え(比志島文書/神奈川県史),鎌倉末期には北条氏一門の大仏維貞が当郡の地頭職を有していたが,その崩壊によって足利直義の所領に組み込まれた南北朝期になると,再び佐竹氏の勢力下となり,文和4年2月11日の佐竹義篤譲状案によれば,戸村・小場県が嫡子義香(義宣)に譲与されているが(佐竹文書/福島県史),康安2年正月7日の佐竹義篤譲状写では戸村郷・小庭村は「次郎宗義分」とされているほか,上野村が「小田御々分」となっている(大山義次文書/家蔵文書)南北朝期,那珂氏一族43人は太田の勝楽寺裏の独松峰の下で殺されたと伝えられる鎌倉期那珂西郡内に勢力を張った那珂一族はここに全滅したが,那珂通辰の子通泰だけは難を逃れ,足利氏に属し戦功によって当郡内の江戸郷を恩賞として与えられたという(水戸市史)通泰は佐竹氏に属し,その子通高のときに江戸氏を称した通高は元中4・5年の難台城の戦に参加し討死にしたが,その子通実は恩賞として関東公方足利氏満から河和田・鯉淵・赤尾関などを与えられ,江戸から河和田城に移った(江戸氏系図)室町期~戦国期にかけても,当郡は佐竹氏の支配にあった文禄3年の太閤検地を機に那珂郡に属す




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7275520