塙村(中世)

鎌倉期~室町期に見える村名。常陸国鹿島郡のうち。鼻和とも見える。年月日未詳であるが鎌倉後期と推定される中臣能親・同則氏問注記に「某上鼻和屋敷不差四至堺,又近辺并安右内云々」と見える(鹿島神宮文書/県史料中世Ⅰ)。応永21年8月27日の造営神役装束等覚写によれば,鹿島神宮造営の神役として当地に装束の提出が命ぜられている(同前)。応永23年霜月15日当地は他の本知行分などとともに中臣則密から中臣則弘に譲与されたが,またこの譲状には「若則弘子無ハ,則隆譲渡可也」と見え,則弘と則隆が反目・対立していたことが予想される(同前)。しかし,応永24年2月24日の大宮司則隆起請文に「鹿島郡棚木・鼻和村事,雖社家還補十九ケ条之内候,任佐々木方約諾状之旨返申候」と見え,この文書の充所は根本寺の永杲で,応永6年11月24日の沙弥永光鹿島幹重寄進状によれば,永杲は根本寺首座永智の養子といわれ,当時の寺の長老であった(根本寺文書/県史料中世Ⅱ)。大宮司則隆起請文に見える「社家還補十九ケ条」とは,年月日未詳の鹿島大宮司方打渡所々等注文を指し,そこには大宮司職給分が列挙され,その末尾に「一,棚木・塙両村事」と見える(同前)。これらによれば,中臣則隆は一時期鹿島神宮を追われて,所職・所領等を没収されていたところ,根本寺の永杲西堂の尽力によって大宮司職を獲得,所領を回復したものと思われる。その礼として,仲介にあたった佐々木某との約束に従い,棚木・鼻和(塙)両村を永杲に寄進したのであろう。これ以後,両村は根本寺西堂の所領となったと思われるが,宝徳元年霜月27日には大宮司中臣則広が「塙之郷」を鹿島神宮の「三月廿一日御祭礼」料としている(同前)。文禄4年7月16日の中務大輔当知行目録写に「一,四百四石壱斗仁升 はなわ」と見える(佐竹義秀文書/家蔵文書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7276067 |