県村(近世)

江戸期~明治7年の村名。梁田郡のうち。寛文元年旗本本庄氏知行,宝永2年からは本庄氏が大名に列せられて美濃岩滝藩領となり,同6年同藩が高富藩と改称。村高は,「慶安郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに999石余。「改革組合村」では簗田・八木宿組合寄場に属す。享保14年「八木梁田両宿之人馬助郷高」によれば,助郷は例幣使街道八木・梁田両宿に出役し,助郷高485石余(近代足利市史)。天保年間の家数92(改革組合村)。用水は当村ほか11か村で市場堰組合を結成し,渡良瀬川の市場堰から引水していた。灌漑面積は田69町4反余(館林領五郡農家水配鑑)。文久元年水不足により当村と羽刈・小曽根・百頭・高松村の5か村の間で水論が起きている(近代足利市史)。慶応3年「足利組織屋連名帳」では南郷機屋組(29か村)に所属し1軒(家泉源吾)が見える(同前)。名主は享保年間所左衛門・左太夫・惣右衛門・七兵衛,寛政年間源兵衛,弘化年間~慶応年間伊兵衛など(同前)。明治4年栃木県に所属。明治7年高富村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7277485 |