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口粟野村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。都賀郡のうち。慶長17年粟野村が当村と入粟野村に分村して成立したという(小峰家文書)。分村して成立した直後には当村は粟野村と称していたらしいが,両村の中間に中粟野村を置いた時に口粟野村と改めたという(同前)。ただし,「慶安郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」ではともに粟野村1村として見える。はじめ幕府領,寛永10年旗本津田氏・平賀氏・春日氏の相給,承応年間武蔵岩槻藩領・旗本梶氏知行・幕府領に分かれ,寛文年間全域が岩槻藩領となり,延宝8年幕府領,元禄10年からは旗本打越・伊沢・小坂・水野・加藤・中条氏の相給。村高は「旧高旧領」で1,641石余。「改革組合村」では楡木・奈佐原宿組合寄場に属し,天保年間の家数165。元禄11年の粟野村差出帳によれば,延宝8年阿部対馬守が検地,惣高1,637石余,うち5石6斗余社寺除地。土質は真土で一部野土。田は水損場,畑は干損場。御林はなく,秣場は中粟野村・入粟野村との入会野場山。用水場は粟野川・粕尾川に各2か所あり,両川ともに毎年溢水するので,川除普請は百姓が竹・材木持寄りで行う。田には青柳を主として作り,種籾は反当7升程,田肥には芝草を入れ,裏作に麦を作り,種入れは1斗から1斗2~3升。主要畑作は麻・麦・芋で,ほかに粟・稗・大豆・小麦・蕎麦・蕪・大根・桑・楮・漆・茶も少しある。蔵米は3斗7升入で口米1升,口永は100文に3文宛。蔵米の津出しは栃木・壬生【みぶ】の両河岸を利用し,江戸廻しの船賃は100俵につき4俵が幕府から支給された。郷蔵敷地が1か所あるが年貢米は多年金納のため荒地になっている。村稼ぎの第1は麻と薪で,薪は年貢山から採り,紙漉が2人いる。名主給は1村1領の時,2人で高48石の諸役免除,組頭給は4人で2両,定使は2人で4両を村中にて負担した。市日は1・6の六斎市で,籾米・麦の取引を主とし,ほかに木綿・塩などの売買が行われている。粕尾川・粟野川を管流しされた木材は字筌場で筏に組まれ,小倉川(思川)を経て江戸へ送られた。寺院は新義真言宗加納山清滝寺・新宮山千手院光明寺。鎮守に新宮(現口粟野神社),忠綱明神(現田原神社)があり,祭礼は1・5・9月に行われるが神酒上げ程度であった。例幣使街道鹿沼宿への伝馬助人馬は元禄7年に免除されたが,明和3年から例幣使街道金崎宿定助郷を勤める。安政2年の戸数203・人数874(男440・女434),馬67(中枝家文書)。慶応4年4月楡木宿・奈佐原宿方面からの打毀が波及し,打越家の用人格代官を勤め農間に質・醤油造・麻・太物・小間物渡世をしていた横尾家をはじめ,質屋などを襲って借金を破棄させたり金品を出させたりしたが,下粕尾村で一揆の頭取が殺されて解散した(倉沢家文書)。明治4年栃木県に所属。同6年創立された明道舎は,同20年粟野尋常小学校となる。明治14年の戸数325・人口1,643(県治提要)。同16年柏木村・入粟野村・中粟野村・口粟野村連合戸長役場を当村に設置。同16年の「地方巡察使復命書」によれば,麻苧取締を業とする粟野村ほか6か村の麻苧組合,口粟野村黒川新作ほか4人の弘産社材木組合があった。明治11年上都賀郡に属し,同22年粟野村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7278835