伊勢崎町(近世)

江戸期~明治22年の城下町名。佐位郡のうち。慶長6年稲垣長茂が1万石を以って当地に入り,築城。以降は,中絶の期間もあるが,おおむね伊勢崎藩の城下町となる。ただし当町は郷帳に高付けされる。はじめ伊勢崎藩領,元和2年前橋藩領,寛永14年伊勢崎藩領,寛文2年前橋藩領,天和元年から伊勢崎藩領。高は,「寛文郷帳」で1,216石うち田方889石余・畑方326石余,「元禄郷帳」1,229石,「天保郷帳」1,505石余,「旧高旧領」1,576石余。なお文化3年の御領分石高覚(阿久津家文書)では本高1,216石余・新田276石余。反別は,寛永19年の検地帳(細野家文書)で109町4反余,うち田41町8反余・畑67町6反余。また明治21年の村誌(伊勢崎市立図書館蔵文書)によれば,元禄2年が本田132町8反余うち田65町1反余・畑67町6反余,新田が67町8反余うち田10町余・畑57町8反余。伊勢崎城(陣屋)は南に表門,東に裏門を構え,現北小学校の敷地に御殿が建てられていた。御殿内には執務部屋や役方詰所などがあった。武家地は,御殿南側が重臣屋敷地,東側が上級家臣屋敷地となっており,長屋は各門近くに作られていた。南西に,安永4年藩校学習堂が建てられ,藩領内各郷学の礎となった。城下町は,城の南に旧茂呂城下商人の移住により成立したという茂呂越町や,本町・裏町など,城の東には間之町・八軒町・新町など,城の北には紺屋町などがあった。寛永19年の検地帳(伊勢崎市立図書館蔵文書)によると,屋敷地の町名として本町下・本町・もろ越町・うら町・紺屋町・新町・間の町・八間町・新町のうら・かね打が見え,名請人筆数計186。このほか名請人のいない空閑地が39筆あり,東方に「八間ノ次より新屋敷」として7筆,北方に「紺屋町うら新屋敷西かわ北より新屋敷」として16筆,「こんや町うら新屋敷東かわ北より新屋敷」として16筆の計32筆が見える。その後,南には,西端に西町・川岸町ができて広瀬川に至り,対岸の広瀬川右岸には川久保町もできた。また東には片町,北には袋町・同心町が形成された。なお「伊勢崎風土記」によると,城下形成前は北部に人々が居住していたといい(県史料集2),城下北はずれの中村や諏訪などにも居住者がいた。伊勢崎の六斎市は本町で開かれていたが,寛永20年新町,万治2年西町に分市され,3町で順に開かれることになった。また寛文年間には,川岸町に河岸が開かれ,広瀬川と利根川合流点の平塚河岸までの舟運をになった。そのため川岸町には船宿が,西町から川岸町にかけては旅宿が並んだ。「伊勢崎町新古日記」によれば,各町の道幅などは,南側では,表門木戸口6間,本町・新町・西町6間,川岸町5間,同町中道は1間半と狭まり,東の木戸口まで道幅3間で木戸を出ると野道となっていた。また東から北にかけては,新町から裏門出口にかけて3間,八軒町出口3間,紺屋町4間,袋町・同心町・片町2間,片町から裏町へ2間3尺,八軒町へ3間。このほか紺屋町から西の同心町入口へ2間,東の袋町入口へ2間,本町から北の間之町へ2間余,南の裏町へ2間であった(伊勢崎市立図書館蔵文書)。「伊勢崎町新古日記」の宝暦13年屋並間数・軒数等書上によると,伊勢崎町の間数について、天増寺橋西際から西へ八軒町出口石橋まで400間,八軒町46間,南へ新町・八間町角から高札角まで114間,西へ本町高札から御門まで164間,南へ西町長八角から木戸まで174間,西へ川岸町大橋際まで96間,南へ橋から連取村境まで92間,家数520うち店借108,馬数は総町中58,中村・諏訪12の計70,人数は御百姓1,615・店借240など計1,964。また明和元年の町明細帳(同前)では,家数421うち店借79,人数1,976うち店借260。天保2年の伊勢崎領田畑寄(上岡家文書)では,本田1,216石・新田275石余,家数523・人数2,063,馬26。寺社は,天台宗華蔵寺のほか,明和8年の村絵図(伊勢崎市立図書館蔵文書/伊勢崎の村絵図)に千手観世音・金蔵院・不動院・本光寺・宝西寺・中台寺・延命寺・同聚院・観音堂・善応寺・大神宮・稲荷が描かれている。文久4年には御殿内に稲荷三社竣工。なお幕末の改革組合村高帳では,当町ほか佐位郡・那波郡内76か村の寄場となっている。明治4年伊勢崎県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治6年に陣屋跡の約3万5,200坪が民間に払い下げられ,同9年旧城内を字赤石と名付けた。明治18年の戸数1,122。同22年市制町村制による伊勢崎町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281519 |