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倉賀野(中世)


 鎌倉期から見える地名。群馬郡のうち。正安3年頃の成立とされる「宴曲抄」には鎌倉から信濃に向かう道筋が記されているが,その中に「今宵はさても山な(名)越ぞ,いざ倉賀野にとどまらん」とあり,当地は鎌倉後期には宿となっていた(県史資料編6)。これ以前,「吾妻鏡」建久元年11月7日条に倉賀野三郎が見える。下って室町期には当地に聖護院系の修験者がいた。文安4年「倉賀野門徒」が「国衆会合并国年行事の成敗」に従わないとして問題になっている(内山文書/県史資料編7)。当地は武蔵から上野に入る要衝にあたるため,戦乱の際はたびたび陣所となった。文明10年足利成氏は上杉氏と対戦して上野に進出,「倉賀野御陣」を構えている(長崎県島原市教育委員会所蔵松平文庫本太田道灌状/同前)。永禄4年以降西上州経略を開始した武田信玄は,まず倉賀野を攻略しようとしたが,倉賀野直行はこれに抵抗した(歴代古案永禄4年12月15日上杉政虎判物写/同前)。同5年になると,武田軍は「箕輪・惣社・倉賀野郷村」をことごとく撃砕(小田部庄右衛門氏所蔵永禄5年9月18日武田信玄書状写/同前),同6年には「倉賀野・木部」に陣を置き(長年寺文書永禄10年3月7日長年寺住持受連覚書/同前),同7年には倉賀野などの苗代をなで払いにした(鎌原系図所収永禄7年5月17日武田信玄書状写/同前)。武田氏のこうした動きに対して上杉氏は長野氏や富岡氏を動員して対抗し(内閣文庫所蔵富岡家古文書永禄8年6月25日上杉輝虎書状写/同前),倉賀野は武田・上杉両戦国大名の抗争において焦点の1つとなった。武田氏は永禄9年9月に箕輪城を攻め落として西上州を制圧すると,倉賀野城に在番衆を置いた。永禄12年と推定される年未詳3月27日沼田番手衆連署書状(上杉家文書/同前)には「倉賀野在陣之甲州衆」の動向が記されている。この間,永禄年間後半のものと推定される年未詳10月14日武田家感状写によれば,「倉賀野居住之無足之者共」が戦功をあげたのに対し,武田氏は玉村郷内に相当の地を宛行うと約束している(須賀文書/同前)。天正10年武田氏滅亡後は織田の部将滝川一益が上野を支配したが,同年本能寺に信長が倒れると,小田原北条氏は滝川一益を攻め,神流川に戦った。この時北条氏直は「倉賀野表」に陣を置いた。小田原北条氏が中毛を制圧すると,天正12年閏12月26日「倉賀野町人中」に宛てて伝馬掟7か条を下し(堀口文書/同前),この後上州全域に伝馬制を広げる基盤とした。また小田原北条氏の掟法も適用されるようになり,宇津木氏の所領福島郷から倉賀野に欠落した百姓一家を「国法」に従って召し返すよう命じている(宇津木文書天正17年12月5日北条家朱印状/同前)。倉賀野の城主は北条氏邦であったが(毛利文書北条家人数覚書/同前),天正18年豊臣秀吉の小田原攻めの時,倉賀野城も陥落した。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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