遊馬村(近世)

江戸期~明治12年の村名。足立郡植田谷【うえたや】領のうち。古くは内野郷水判土【みずはた】荘に属したという。はじめ幕府領,寛永9年一部が旗本丸毛氏の知行,同10年幕府領の一部が旗本森川・西山氏の知行となる。正保元年森川氏分は幕府領となったが,慶安4年一部が旗本本目氏の知行となり,以後幕府領と旗本3氏の相給(諸家譜)。森川氏が寛永10年徳川家光より賜わった知行地の覚によると「百弐拾五石九斗七合,武州上田筋遊馬村之内」とある(記録御用所)。検地は慶長16年・元禄2年。村高は「田園簿」で775石余,うち田45町余・畑27町余,「元禄郷帳」887石余,「天保郷帳」874石余。村の規模は東西3町余・南北10町余。化政期の家数190軒。用水は江川や水溜堀・下谷堀などの水路と散在していた井戸河池・淵の端池・白地河池・古関河池・丸堀池・堀付池などを利用。紀伊徳川家の御鷹場支配をうけ鳥見役北沢甚之丞預り28か村の1つで,下総【しもうさ】国小金原で行われた寛政7年の猪鹿狩りには81人,嘉永2年の猪鹿狩りには57人の勢子人足を徴発された。また天保年間には鷹匠や鳥見の廻村費用の負担軽減を図るため下小村田村と小組合を結成していた。助郷は中山道大宮宿に出役。正徳・安永年間には日光御成街道大門【だいもん】宿への当分助郷を負担。荒川付の村方であり,大風雨の際にはたびたび堤が欠崩し田畑が冠水した。特に伊奈氏が荒川瀬替の際に土屋古堤を築き,入間【いるま】川の旧河道を荒川本流として付替えた所は水当たりが強く,異常増水時にはしばしば決壊した。このため土屋村と組合をつくり維持管理にあたったが,大掛りの普請工事は大名御手伝普請で行われた。中期以降をみても宝永2年・寛保3年・安永9年・天明3年・同6年の5回にわたり大名御手伝普請が行われている。文政11年より大宮宿寄場55か村組合に所属。御料名主の都築宗八は小惣代をつとめている。弘化年間には9人の質屋渡世,安政年間には職人として建具屋3人・大工3人・木挽1人・屋根葺4人・杣5人・桶屋3人・左官1人・黒鍬3人がいた(大宮市史)。主要道路は川越【かわごえ】道で,千手堂の渡しを経て川越の城下町へ通じていた。村内には遊馬河岸と下河原河岸があり,また秩父【ちちぶ】や名栗【なぐり】方面から下る筏も多く筏乗子の定泊もあった。鎮守は華蔵院持の氷川社。ほかに神社は稲荷社・八幡社。寺院は曹洞宗高城寺・同西光寺・天台宗竜蔵寺・同華蔵院・羽黒派修験秀源寺。高城寺は村民の菩提寺であり,享保期に創設された新秩父三十四所札所の27番札所でもあった。文化期に寺子屋が開かれた。小名は高木・本村・隅野・宿・中野。明治4年埼玉県に所属。明治9年の戸数208・人口1,142,馬68,小船6・水害予備船39・耕作船77,荷車4。物産は繭・米・大麦・小麦・大豆,ほかに製茶を行い,物産の多くを出荷していた。土屋・指扇【さしおうぎ】両村の間に飛地があった。明治6年高城寺を仮用し公立小学校(遊馬学校)開校,生徒数51。同12年郡区町村編制法施行に伴い北足立郡西遊馬村となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285227 |