海上郡

大化前代には下海上国【しもつうなかみのくに】といわれたらしく,「旧事本紀」に下海上国造,「古事記」に下菟上国造と見える。「常陸国風土記」によれば大化5年「下総国海上国造部内」の1里が割かれて常陸国鹿島神郡に編入された。奈良期~平安期に海上国造の地位を世襲したのは他田日奉部【おさだのひまつりべ】氏で,「正倉院文書」の人々啓状では,左京七条の人従八位下海上国造他田日奉部直神護が海上郡大領(郡司)に任じられるよう申請している。神護は,平城京にあって養老2年から神亀5年まで兵部卿藤原麻呂に位分資人として仕え,天平元年から同20年までは中宮舎人であった。また,神護の祖父小乙下忍,父追広肆宮麻呂,兄外従六位下国足も当郡の大・少領を歴任したという(寧遺下)。天平勝宝7年,防人として筑紫に派遣された者に「助丁海上郡海上国造他田日奉直得太理」があり,「暁のかはたれ時に島陰を漕ぎにし船のたづき知らずも」の歌を詠んでいる(万葉集巻20)。延暦4年正月には海上国造他田日奉直徳刀自を外従五位下に昇叙(続日本紀),平安期の仁和元年閏3月には海上郡大領外正六位上海上国造他田日奉直春岳が百姓の調庸を代納して外従五位下を与えられた(三代実録)。平城宮跡出土木簡によれば「下総国海上郡酢水浦若海藻」が御贄として貢納されているが(県史料金石3),これは海上国造の貢献物の伝統をひくとみられる。「和名抄」では,大倉・城上・麻続・布方・軽部・神代・編玉・小野・石田・石井・須賀・横根・三前・三宅・船木・橘川の16郷を記す。古代における当郡域は近世以降よりも広く,現在の銚子市・飯岡町・海上町のほか,東庄【とうのしよう】町・小見川町・山田町などの町域を含んでいた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7292510 |