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横田郷(中世)


 室町期に見える郷名。上総国畔蒜【あひる】荘のうち。畔蒜北荘に属したと推定される。応永18年9月20日の称名寺領畔蒜荘横田郷検田帳案(覚園寺文書/神奈川県史資料編3上)に,「畔蒜庄横田郷内〈こんとう三郎跡田畠地検目録事〉」と見える。近藤三郎なる者の闕所地を給与された新領主が,郷内田畠を検注したもので同史料によれば,近藤三郎跡の田地の構成は,神講田1町大45歩,了観名5町8反90歩,散在田地が4町4反,「いちは(市場)内」の田地が2反,給所分1町6反90歩で,合計11町9反余。畠地は,神講畠が4反半30歩,了観名が屋敷を含めて2町9反6歩,市場の彦三郎が耕作する「あへ(阿部カ)」「いちははたけ(市場畠)」の散在畠地が1町4反,ほかに2人が耕作する散在畠地が2町8反90歩,散在給所方々畠が1町小,合計8町5反余である。次いで応永23年9月2日の上総国畔蒜荘横田郷名寄帳(同前)に,「横田郷四分一田数之事」とあり,当郷4分の1の田地構成が記されている。これによれば,「ほん(本)名」(2町2反小30歩),「こんとう四郎名」(7反半),「中内三郎名」(4反大30歩),「あへ(阿部カ)名」(4反330歩)の4名,「しんしのせうか内」(9反小),「平せうか分」(1町5反小),「たうおんかふん」(8反60歩),「けんけうせうかふん」(7反)の4人の耕作者分,および「さんさいふん(散在分)」(1町1反半30歩)という構成で,田数の合計は9町余である。この2通の史料には,当郷内の神講田を有する寺社名や田畠の所在地名が多数記されているが,そのうち「十二天」「いちは」「くらさい」「きつねしま」「もちほり」「きやうてん」「大つほ」「こぬま」「いまやなか」「かわた」「あへ」「いなりしま」などは袖ケ浦市横田や周辺の大字名・小字名に遺称が残存する。以上の現存地名から,当郷は現在の袖ケ浦市横田・阿部・三黒・谷中・堂谷を含む一帯に比定される。なお,戦国末期には,天正19年の徳川家康朱印状により,「上総国横田村之内三百石」が坂部三十郎広勝に充行われている(古文書集/徳川家康文書の研究中)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7297487