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荻野郷(中世)


 南北朝期~戦国期に見える郷名。相模国愛甲郡毛利荘のうち。観応3年6月13日の足利尊氏禁制に「覚園寺領相模国毛利庄内妻田・散田・荻野郷等事」と見え,当郷は鎌倉覚園寺領であった(相文/県史資3上‐4167)。至徳3年6月15日の官宣旨により,覚園寺領である当郷について「伊勢太神宮役夫工米・造内裏・御願寺・斎宮以下勅事,院事,棟別・段銭・押書・五月会炭役・大小国役,国司入勘并国郡及甲乙人妨,寺領内山野狩漁等」の諸役が停止されている(覚園寺文書/同前5008)。下って,応永16年3月晦日覚園寺評定衆10人は「荻野阿弥陀堂」などの田畠を同寺開山塔の泉竜院に寄進している(同前5412)。次いで,文安5年11月21日室町幕府は覚園寺の本寺京都泉涌寺を通じて,当郷などを覚園寺に安堵し(相文/県史資3下‐6070),翌文安6年2月7日には後花園天皇が綸旨を下して,覚園寺が当郷知行を全うして御祈祷を専らにすべきことを命じた(覚園寺文書/同前6075)。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏御馬廻衆松田助六郎の所領役高として「買得 百七拾七貫弐百七拾壱文 元田中知行 中郡荻野郷」と見え,このうち114貫余は天文11年検地の増分であった。天正13年2月27日の北条家市法度によれば,当郷では4日・9日・14日・19日・24日・29日に六斎市が開かれ,楽市と定められた(難波文書/県史資3下‐9059)。また天正17年と推定される己丑12月晦日の北条家朱印状写によれば,井山とともに当地に大筒5丁の役が命じられている(相文/同前9544)。天正18年4月日の豊臣秀吉禁制写に「相模国大中郡荻野村」と見え,当地に禁制が下されており,秀吉は小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかる(同前9747)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302676