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小倉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。相模国津久井県,明治3年からは津久井郡のうち。寛永10年・元禄10年ともに幕府領,幕末は旗本鷲巣氏知行と幕府領。村高は「元禄郷帳」230石余,「天保郷帳」280石余,「旧高旧領」では幕府領24石余,鷲巣氏知行地252石余。元禄年間の津久井領諸色覚書(藤野町役場所蔵文書/県史資6)によれば高230石余,反別は田3町8反余・畑34町8反余・新田畑2町3反余・かや畑2町1反余,家数62軒・人数456うち男228,馬49,小物成として漆2桶・紬50端・大豆1石余・荏4斗余・鐚218文が課せられていた。また津久井県村々正漆納代永納仕訳控帳(和智家文書/県史資9)では現物納で漆2貫35匁,永納で3貫175匁の漆役が課せられていた。「新編相模」によれば,江戸から13里,東西15町・南北30町,家数63軒,相模川の対岸上川尻村から西隣の根小屋村に通じる道がある。鎮守は諏訪社と八幡社。寺院に臨済宗医王山東光寺・極楽山東光寺・普春山常照寺がある。村中央を相模川の支流串川が東流。村の北端を流れる相模川には当村と上川尻村久保沢とを結ぶ渡船場があり,小倉の渡しと呼ばれた。当村は相模川水運の物資集散地の1つで,厚木方面からの高瀬船はこの地で陸揚げされるものが多く,上川尻村へ荷継ぎされていた。相模川には渡船のほか通船・材木筏など多数が往来していた。当地は,高瀬船舟運で利益をあげ,明治・大正期頃までは「宵越しの金は持たない」といった風潮で,付近の山村とは生活の様相を異にしたという(木村編:封建村落)。明治元年神奈川府を経て神奈川県,同4年足柄県,同9年からは再び神奈川県に所属。明治6年小倉小学校開校。同17年当村および川尻・葉山島・中沢の4か村の連合戸長役場を川尻村久保沢に設置。蚕糸業組合の業目人名調によれば,明治19年には総戸数66で,このうち養蚕戸数61・製糸戸数63を数えた(富岡家文書)。同22年湘南【しようなん】村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302688