100辞書・辞典一括検索

JLogos

31

小沢郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名武蔵国橘樹【たちばな】郡のうち「吾妻鏡」元久2年11月4日条に「武蔵国小沢郷〈稲毛入道遺領〉可被知行之由,被仰云々」と見える当郷は元稲毛重成の所領であったが,重成とその子小沢次郎重政は同年6月23日の畠山重忠の乱に連座して誅されている(吾妻鏡)しかし,同年11月3日小沢信重なる人物は,北条時政の外孫にあたる重成の女が綾小路師季に嫁して生んだ2歳の女子を京都から呼びよせており,北条政子は猶子として同女に当郷を知行させている下って,南北朝期の暦応4年8月7日の摂津親秀譲状に「武蔵国小沢郷」とあり,松王丸に譲られている(士林証文/大日料6‐6)その後応永24年12月13日の摂津満親寄進状案によれば,「武蔵小沢・小机」の替えとして加賀国倉月荘諸江・山口の2か所を南禅寺裒勝軒に寄進している(南禅寺文書/加能古文書)ついで宝徳4年2月6日の管領畠山持国奉書では,父満親の譲状に任せて摂津之親に当郷などが安堵されている(美吉文書/県史資3下‐6135)なお,正平7年正月日の高麗経澄軍忠状に「一,同(観応2年12月)廿日,押寄苻中,追散御敵等,焼払小沢城畢」と見え,当郷内にあった小沢城(現在の川崎市多摩区菅)を焼き払ったことが記されている(町田文書/県史資3上‐4131)「蔭涼軒日録」長享2年7月5日条に見える西芳寺寺領目録案に「武蔵国小沢郷金程村久敷不知行之間不存之」とあり,かつて西芳寺領だったことが知られる(県史資3下‐6383)下って戦国期の天文15年7月9日の北条氏康判物写によれば,河越合戦における勲功の賞として,「武州小沢之郷弐百十八貫文之地」を垪和左衛門大夫に宛行っている(諸家所蔵文書/同前6806)また「役帳」には,小田原北条氏松山衆垪和又太郎の所領役高として「弐百貫文 武州小沢郷」と見えるなお大永6年9月関東管領上杉憲寛と扇谷上杉朝興は小沢城を落としたという(続本朝通鑑)また享禄3年の初めに上杉朝興は北条氏綱の将遠山氏と戦ってこれを破り,小沢・瀬田谷両城を奪ったしかし同年6月には,氏綱の子氏康が初陣で,小沢原(菅・細山付近)で朝興軍を破っている(続本朝通鑑・相州兵乱記/川崎市史)また文亀元年3月20日の旦那売券に「むさしの国小さわの小田一そく」と見え,はまのみやいくま又三郎から実報院に売り渡されており(米良文書/熊野那智大社文書2),年未詳の小田名字在所注文写にも「一,武蔵国おさハの小田殿」と見える(同前/埼玉県史資料編6)現在の川崎市多摩区菅,麻生【あさお】区細山・金程,東京都稲城【いなぎ】市坂浜あたり一帯に比定される




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302695