100辞書・辞典一括検索

JLogos

92

中村郷(中世)


 南北朝期~室町期に見える郷名。淘綾郡のうち。南北朝初期に成立したと思われる「曽我物語」には,源頼朝が曽我氏供養のため「土橋・中村両郷」の公田160町を曽我大御堂に寄付した旨の記載がある。その後の確実な史料としては明徳元年8月24日の相模守護三浦高連請文写(伊豆順行記/県史資3上‐5073)に「走湯山社領相模国中村郷内畠拾町年貢事」とあり,当郷は走湯山社領であったことが知られる。またこの請文には「中村安芸太郎憲平」の名が見えるが,これは中村氏直系にあたる人物と思われる。戦国期の「役帳」には小田原北条氏小田原衆の篠窪民部丞の所領役高として「拾貫弐百六拾七文〈同(西)郡〉会下分中村ニ伏」とある。また「本光寺」分として「百貫文〈西郡〉中村・沼代分」,「伊豆山領」分として「五拾三貫三百七拾文〈西郡中村ニ伏〉大豆町屋,卅二貫文〈同〉太井三田分」が記されている。その他,「役帳」には小田原衆の花之木氏の所領役高として「四拾六貫文〈西郡〉下中村惣領分」,同じく小田原衆の渡辺左衛門分として「五拾貫文 下中村惣領分内 大普請半役 今度被改上 知行役可申付」と見え,当郷が戦国期に上中村と下中村とに分かれていたことがうかがえる。下中村に関する史料としては,このほかに天文16年9月21日の北条氏康寺領寄進状(本光寺文章/県史資3下‐6820)に「相州西郡下中村内上町分」とあるのをはじめ,「本光寺文章」などに同地名が数多く見られ,同地は本光寺領であったことがわかる(同前6900・6901・6906・6993・7018など)。またこれらの文章中,下中村内の地名として「上町」「沼代」「前川」「沼代之村岸」などが挙げられることから,同地は現在の小田原市東部付近一帯と推定される。一方,上中村に関する史料としては同じく「本光寺文章」が挙げられ,永禄10年10月12日の北条氏朱印状(同前7569)に「上中村岩倉分」と見える。また「新編相模」の足柄上郡遠藤村の項に載せられた,同村内五所八幡宮蔵の文明13年9月10日の日付の棟札写には「相模国上中村郷」と記されている。上中村の現在比定地については,同地内の地名として岩倉が挙げられることから,足柄上郡中井町付近と推定される。なお,戦国期には現在の中井町鴨沢に「鴨沢要害」と呼称される戦闘の拠点があった。これは「中村要害」とも呼ばれ,年未詳12月23日の古河公方足利政氏から三浦弾正少弼(義意)にあてた感状(相文/県史資3下‐6494)に「上杉治部少輔入道,去九日中村要害相動候之処,凶徒出合候間,於城涯遂一戦,得勝利」と見える。この文書の伝える鴨沢要害の攻防は永正7年の権現山合戦に連なる北条早雲と上杉氏あるいは三浦勢との対立を示すもので,県史はこれも永正7年の事件としている(県史通1)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7304480