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成田荘(中世)


 平安末期~戦国期に見える荘園名。相模国足柄下郡のうち。初見は「兵範記」保元2年3月29日条所収の太政官符(県史資1‐古815)で,保元の乱により没官された左大臣藤原頼長領の1つとして「相模国壱処 成田庄」と見える。保元の乱のころは藤原頼長領で,乱後は後白河天皇の後院領となったが,永暦2年正月に後白河上皇から京都の新日吉社に寄進された(妙法院文書/同前古833)。正慶元年6月日の「故大宰帥親王家(世良親王)御遺跡臨川寺領等目録」と題する臨川寺領目録(天竜寺文書/県史資2‐3013)には,「一,相模国成田庄」と見え,「領家故親王家,地頭押妨,年貢百計之地也,地頭名字不審,本家新日吉領」とある。これにより新日吉社が本家職を領したこと,領家は世良親王家であったこと,その年貢は100貫文であったことがわかる。南北朝期の康永3年7月日の亮性法親王庁解文(妙法院文書/同前3上‐3726)によれば,新日吉社領である当荘本家職は同社検校職の妙法院門跡に相伝されてきた。文和2年10月日の妙法院当知行目録案(同前/妙法院史料5)には,「一,新日吉社検校職 付社領内当職管領相承庄々」の1つとして「相模国成田庄」が見える。なお「天台座主記」文永8年7月23日条に「講堂事改仲秋被仰付……成田庄,但馬国竹野郷,仰木庄年貢百果為其料所」とあり,講堂の修理料所となっていることがわかるが,同書には他にも当荘の名が散見される(続群4下)。他方,建武3年の世良親王遺領注進状案(臨川寺重書案文/県史資3上‐3316)によれば,領家職は大宮院―昭慶門院―世良親王―室町准后(世良親王の女)と相伝されたことがわかる。暦応4年9月23日の光厳上皇院宣案(臨川寺重書案文/県史資3上‐3555)によれば,同上皇は室町准后に対し当荘その他をもとのごとく管領することを認めている。この後当荘は天竜寺領として見え,至徳4年閏5月21日の天竜寺領土貢注文案(天竜寺文書/同前5024)には,「一,成田荘 銭伍拾肆貫文〈加金子分〉」と見える。応永27年4月19日の室町幕府管領細川満元奉書案(鹿王院文書/同前5612)にも「天竜寺領相模国成田庄」とあり,段銭以下諸公事,臨時課役,守護役を免除されている。年月日未詳天竜寺目録(同前5613)には,「相模国成田庄〈付,金子村〉」とある。また応永29年6月21日の黄梅院奉加銭替銭結解状(黄梅院文書/県史資3上‐5650)には「三月十四日 五拾貫文 成田天竜寺……五月三日 三拾貫文 成田庄主納分」が見える。この後天竜寺領としては,文明17年3月20日の天竜寺領土貢注文(天竜寺文書/大日料8-17)に「一,成田庄 銭伍拾肆貫文〈加金子分〉」とあるのを最後に見えなくなる。他方当荘内の北成田郷地頭職は小早川氏に相伝された。その初見は寛元4年11月3日の将軍藤原頼嗣安堵下文(小早川家文書/県史資1‐374)で,「相模国成田庄内北成田郷〈可致惣沙汰由載譲状〉」地頭職を,去年正月17日の父小早川季平の譲状に任せて同季氏に安堵している。またこれとは別に同日付の同安堵下文(後欠)でも同郷内の地が同季保に安堵されており(長府毛利家文書/県史資1‐375),北成田郷がこのとき分割されて譲与されたことがわかる。なおこれより先,寛元3年正月17日の小早川某所領譲状(小早川家文書/鎌遺6433)には,「きたなるたのかうのうち,とうたつくりのやしきのた一丁をハ,七郎にゆつりたひ候ぬ,たゝし六丁のきうてんのうちとあるへし」と見え,同郷の給田6町のうちの藤太作屋敷田1町が七郎に譲られており,この七郎が季保(季泰)とみられている(駿河相模の武家社会)。文永3年4月9日の関東裁許下知状(小早川家文書椋梨家什書/県史資1‐525)は安芸国沼田新荘惣地頭職以下をめぐる,小早川竹王丸(定平)と惣領家の同茂平(法名本仏)代重兼との間の相論に裁許を下したものである。それによれば両者は「相模国成田内北成田郷鶴丸名」についても争っており,竹王丸の勝訴になっている。竹王丸の主張はまず,「当郷者三代相伝之条,御下文顕然也」とあり,また「鶴丸名田屋敷者,本主成田五郎入道栄願,建保三年避与季平之間,知行四十余年也」という点にあった。この鶴丸名が開発領主とみられる成田栄願から小早川季平に譲られたという主張については認められなかったが,季平―国平―竹王丸(定平)と3代にわたって相伝された点が幕府に認められたのである。他方惣領家の方は,「季平等当郷相伝之条勿論也」としつつも,鶴丸名は惣領家の進止で,季平・国平には預け置いたのであると主張している。以上から明らかなように,北成田郷の地頭職は小早川庶子家の椋梨家に季平―国平―定平と相伝され,また当郷の鶴丸名も同家の所領として同様に相伝されてきたのである。他方,応長2年2月8日には「さかみのくにきたなるた」が小早川政景妻の如心から孫の高平に譲られている(小早川家文書/県史資2‐1847)。この如心は竹原小早川家系図によれば小早川季泰の女で(小早川家文書2/大日古),南北朝期には小早川政景の子景宗の系統に当郷内の藤太作屋敷田が相伝されている。なお文応元年9月19日の関東下知状(仏日庵文書/相文3)では,「成田庄飯泉郷内田肆町参段⊏⊐弐所」が,正嘉3年4月9日の飯泉景光譲状に任せて,その後家に安堵されている。飯泉郷が当荘のうちであったことを示す。南北朝期に至り,建武5年2月24日の小早川景宗譲状(小早川家文書/県史資3上‐3353)では「成田庄内藤太作屋敷田五段」が安芸国竹原荘などとともに同重景に譲られている。同所領はこれ以後竹原小早川氏の景宗の子孫に相伝される。貞治2年6月29日に重景から重宗に(同前4463),応永5年5月13日には小早川仲義から弘景に(同前5211),応永34年11月10日には弘景から盛景に(同前5792),宝徳2年正月29日には盛景から嫡男弘景に(同前3下‐6087),それぞれ譲られている。以上のように,北成田郷は鶴丸名や藤太作屋敷田などから成り,小早川氏に分割相伝されたものとみられる。戦国期の「役帳」には,小田原北条氏御馬廻衆藤田大蔵丞の所領役高として,「百弐貫九百八拾七文 西郡成田 此外 七拾四貫三百六拾文 検地上本途不足」と見える。もとの貫高は177貫347文であったことがわかる。北条氏家臣松田孫太郎らが4月ころ曽我の劔沢の藤を見るために「鞠川を打渡り,成田飯泉を過て,大友に懸り」曽我に至ったという(北条記2/続群21上)。天正20年11月20日の西光院松原大明神社領書上(蓮上院文書/相文1)には,「参貫五百文 同(此米)五石四升 成田郷ニ有之」と見える。なお飯泉郷は戦国期に小笠原氏の所領となっており,「役帳」には小笠原六郎殿の所領役高として「百八拾貫三百九拾一文 西郡飯泉郷」とある。現在の小田原市成田・飯泉【いいずみ】付近に比定される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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