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懐嶋郷(中世)


鎌倉期~戦国期に見える郷名相模国高座【たかくら】郡大庭御厨のうち「吾妻鏡」建久元年10月3日条に,源頼朝が上洛の際「相模国懐嶋」に宿を取り大庭景義のもてなしを受けた旨が見える大庭御厨内の西部に位置するこの地は,当時は懐嶋平権守と通称される景義の所領であり,さかのぼって治承4年10月23日頼朝が勲功賞を行った時,彼に安堵されたものであろう(吾妻鏡)しかしその後,子景兼が和田義盛の乱に加わり敗死したため所領は没収され,新たに二階堂元行の所領となる(同前建暦3年5月2日条)建暦3年5月9日の将軍源実朝袖判下文によれば,「相模国懐嶋殿原郷」の地頭に元行が補任されている(二階堂文書/県史資1‐278)元行の所領は仁治元年10月14日沙弥行阿所領譲状で子行氏に相伝され,同年閏10月20日将軍家政所下文ではこれを承認している(同前349・350)この行氏の記録である文永8年5月7日の道智置文案には「所々堺事」として「懐嶋与萩曽禰堺事……同懐嶋与柳嶋堺事」と見え,当地が萩曽禰および柳島と境を接していたことを示している(同前614)文永9年5月26日将軍家政所安堵下文案によれば,「懐嶋内殿原郷」はさらに子行景に譲られる(同前641)しかし弘安8年12月の安達泰盛乱聞書に見える「懐嶋隠岐入道」とは行景のことで,二階堂氏の当地支配は,元行・行氏・行景の3代で終わる(熊谷直之氏所蔵梵網戒本疏日珠抄裏文書/県史資2‐1018・1020)その後は大仏氏の所領となったらしく,元弘3年~建武2年の間のものと推測される足利尊氏・同直義所領目録に,「相模国絃間郷〈貞直〉・同国懐嶋〈同〉」とあり,大仏貞直の所領であった当地が,建武政権成立後は足利直義の所領となっている(比志島文書/県史資3上‐3141)観応2年10月17日三浦高通代沙弥円証請文によれば,「懐嶋郷半分〈萩原三郎跡〉」をめぐって,下野国の在地領主茂木知世と,この地の在地勢力と思われる萩原四郎とが争っている(茂木文書/同前4095・4096)その後の領有関係は不明だが,長承2年の創建で大庭景義が再興に力を尽くしたと伝えられる懐嶋の鶴嶺八幡宮別当勝福寺の光明院に,「大庭御厨堤郷内田地肆段」が寄進され鎌倉公方足利基氏の菩提所として厚遇を受けていることが,至徳元年閏9月3日鎌倉公方寄進状に明らかである(相模文書/同前4968)応永24年正月日の烟田幹胤軍忠状案に「懐嶋御陣」と見え,上杉禅秀の乱に際し鎌倉公方足利持氏は懐嶋を陣所としていた(烟田文書/同前5506)文安5年10月日の懐嶋内三郷名寄によれば,「懐嶋内三郷辻在家」が建長寺塔西来庵領となっている(西来庵文書/同前3下‐6067)康正2年12月の某禁制,長禄2年8月日の板倉頼資禁制では,当所領に対する軍勢甲乙人等の乱暴狼藉が禁じられており,享徳の乱後の混乱の中で懐嶋も戦場になることが多かったのであろう(同前6245・6264)享徳20年7月22日の茂木持知申状には古河公方足利成氏の安堵を得た所領として「懐嶋六ケ村」があげられているが,関東管領上杉氏の勢力が強かったこの地で茂木氏の実質的支配が成立していたかどうかは疑わしい(茂木文書/県史資3下‐6319)文明2年2月11日の相模国檀那注文に「同ふところしま下のまちや」とある(米良文書/同前6314)なお「役帳」には,小田原北条氏の御馬廻衆近藤孫太郎の所領役高として「百四拾九貫弐百文 東郡 懐嶋」が見える天正18年4月日の豊臣秀吉掟書(相文/県史資3下‐9700)が「東郡内ふところ嶋三ケ村」に下されている本文書によれば,秀吉は百姓に当地への還住を命じ,併せて保護のため乱暴を停止しており,小田原攻めに際して当地を掌握しようとしたことがわかるなお当地が京・鎌倉往還の要地であったことは,「海道記」の貞応2年4月17日(群書18),「関東往還記」の弘長2年2月27日の記事(西大寺叡尊伝記集成)などに明らかで,「実暁記」(大日古6-2)や「経覚私要抄」(同前8-2)では,京より鎌倉に至る63宿の1つとして「懐嶋」をあげているなお天正19年5月3日,石川永正への知行宛行状に「相模国東郡……弐拾九石六斗 懐島本社之内」とあり,同年月日山岡景長への宛行状に「弐百拾九石六斗 懐嶋之郷」,戸田勝則への宛行状に「百八石六斗 懐嶋之内矢端」と見える(記録御用所/県史資8上)現在の茅ケ崎市円蔵・西久保・矢畑・浜之郷あたりに比定される




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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