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舞岡郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。相模国鎌倉郡山内荘のうち。前岡とも書く。延慶2年2月23日の南条時光譲状に「さがミの国山内庄まいおかのかう」とあるのが初見(大石寺文書/県史資2‐1730)。得宗被官南条時光は嫡子時忠に,当郷内の屋敷2所,給田1町3反120歩のほか,畠・野原などを譲与している。なお,和田義盛の乱の際和田方についた土屋義清の子義則は「舞岡兵衛」と名乗っており(土屋系図/奥山荘史料集),当郷と関係があったものと思われる。下って戦国期の大永7年8月12日の北条氏綱判物には,「依松岡殿(旭山法暘)御料前岡郷事」と見え,鎌倉東慶寺の旭山法暘領となっていた当郷に対して,陣夫3人を除いた諸公事が免除された(東慶寺文書/県史資3下‐6610)。また,大永7年8月28日の北条氏綱書状の別紙追って書きからも,当郷が東慶寺領であったことが知られる(同前6611)。天文18年3月28日の石巻家貞掟書によれば,東慶寺領であった当郷および野葉郷の百姓に対して,餌指の立入りを禁止している(同前6866)。なお戦国期の「役帳」には,寺領のうち松岡殿の所領役高として「卅貫文……同(東郡)前岡」と見え,東慶寺領であったことが確認できる。天正2年8月17日の北条家朱印状によれば,当郷は216貫753文の地で,神田5貫文・代官給7貫文・井料4貫文・定使給2貫500文・公事免22貫文の計40貫500文の除田畠があり,残りの176貫253文と検地増分107貫253文が東慶寺領の定田畠となっていた(同前8224)。また天正9年9月23日には,当郷および野葉郷の百姓に対し,両郷からの現夫4疋(人)はこれまで山角疋勝が召仕してきたが,以後は太田氏房の召仕とする旨が伝えられている(同前8658)。天正14年12月25日の北条家朱印状写では,紺屋役を納めていない郷村の1つとして「前岡」が見え,これを徴収するよう命じている(新編相模/県史資3下‐9228)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7305051