山西村(近世)

江戸期~明治22年の村名。相模国淘綾【ゆるき】郡のうち。地内には梅沢の立場がある。寛永17年川匂【かわわ】村を分村。寛永10年・元禄10年ともに幕府領,幕末は小田原藩と旗本神谷氏知行。村高は,寛文年間の三郡高帳(県史資6)によれば先高715石余,「元禄郷帳」517石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに572石余。なお「旧高旧領」の村高には,川勾神社領50石が含まれる。元禄9年の村明細帳によれば,反別は田6町余・畑78町7反余,小物成は船16艘分の船役永5貫450文・塩年貢永2貫428文・御林下草代永175文・押切芦売代永250文・百姓山年貢永1貫174文など,家数228軒・人数1,216,馬26,東海道16町27間の道作り并掃除などの人足出役,農間余業は男が木草取り,女が麻・木綿織であった(県史資6)。同13年11月相名主の支配管轄をめぐる出入が起こったが,翌年2月今までどおりという裁定がなされ和解が成立した(同前)。「新編相模」によれば,江戸より18里,村の東西16町余・南北12町余,家数120軒,東海道沿いに梅沢の立場があり,茶店・休息所が並び繁栄していた。鎮守は二ノ宮神社(川勾神社),神社は吾妻社・神明社・熊野社など8社,寺院は真言宗等覚院・同宗金剛院・曹洞宗宝蔵寺・時宗光福寺。なお享保10年道中奉行から梅沢での宿泊禁止令が出されたが,その後も宿泊は続けられたらしく,安政5年1月には梅沢茶屋旅人宿泊禁止願が大磯宿から出されている(県史資9)。嘉永7年の定助郷村議定連印帳によれば,当村も大磯宿の定助郷村として連印し,困窮を理由に加助郷村を定助郷村並の勤方にするなどの嘆願をしている(同前)。明治4年小田原県から足柄県を経て,同9年神奈川県に所属。明治7年山西小学校開校。同22年本村は吾妻村,飛地は下中村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7305421 |




